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わが助けは天と地を造られた主から来る。(詩篇121篇) 
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最近パソコンに向かう時間と、台所にいる時間、職場にいる時間が多くて 正直なところ何だか分からない気持ちで爆発寸前です。 たまには何もかも忘れて、大笑いしたり 大画面で映画みたり、カラオケに行ったり、めちゃくちゃに走って 向かいの山に向かって「やっほー」とか言ったりしたいです。 そんな私が唯一、「無」になれるひと時は聖書を開いているときと テレビで大好きな「鳥居みゆき」を見ている時でございます。

大好きな聖書、それに犬と音楽と笑いとイギリス…私の人生に欠かせぬ大切なエッセンス。 特に「笑い」は心の90%を占めると言っても過言ではないほど重要視しています。 

先週の礼拝で、他の教会からゲストスピーカーの牧師さん。 面白いお話で、久々のヒット! 韓国から来て10年日本で伝道しているとかで、日本語が私より上手でした。

聖書の話や説教を、笑って笑って笑わせてくれる牧師さんがしたら 今の時代にマッチして絶対いいと思います  誰か面白い牧師にならないかな。

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五月に徳島で行われる 無教会全国集会に私も参加します。 今回は賛美、手話賛美などに参加させていただきます。 人前は苦手ですが、歌うのは大好きなので テンション上がりまくり

聖書について知りたい、キリスト教について知りたい…という方は ぜひ参加してみてください。 お薦め☆

詳しいことは こちらまで→http://pistis.jp/textbox/default.htm

愛犬コパン。

何気なく行ったペットショップの、ショーケースに入れられた赤ちゃんのコパンに一目ぼれして、彼女と暮らすために2年前に今の家に引っ越した。  二日遅れで引き取りに行って、二日前から首にリボンをされて私達を待っていた。 

犬って不思議。 
まったく違う生き物の私達人間をあんなに小さな赤ちゃんの時から、求めるべき存在なんだと知っている。 怖がらないで迷わず腕の中に飛び込んできた。 その瞬間から、一つの尊い命の責任と愛情を神様から受け取った気がした。 

そして今年、コパンは2歳になりました。
二度目の予防接種で、心臓に雑音があることを指摘されました。 最近、発作があったので言われて「やっぱり」とショックだった。 無理な運動は控えなければいけない。

ミニチュアピンシャーは、他の犬に比べてあまり寿命が長いほうではない。 しかも、心臓に雑音…いつも私を愛してくれるコパンの毎日を充実したものにしないとな…決心は強まりました。

コパンを見ていると、日々、ますます愛おしく感じていく。 愛らしいコパンをお腹を痛めて生んでくれた母犬に「ありがとう」って伝えたいです。。

おはようございます。

長いこと、ブログもせずにせっせと土地探ししていましたよ。 そして先週からジワジワと体力がなくなり、疲労でヘロヘロになってしまいました。  睡眠障害が出始めていました。 でも、月曜からは無理やり眠るようにしていたので 今朝、久々に爽快な朝を迎えることができました♪

睡眠不足になると、チョコレートに手を出す私。 
昨日はスニッカーズとキットカットをペロリでした。

土日忙しい中でも土地を探していました。 平日の仕事のお昼休みも、土地を見に行きました。 執念でした。。。で、そうしているうちに 建てたい家を見つけました。
旦那様と二人で一目ぼれした家。 
せっかく土地を見つけても、旦那さまは「この家を建てれる土地を探す」とまで言い出す始末。 土地探し班の私もさすがに爆発してしまいました。 

祈りながら土地探しを進めているので、話がキャンセルになった土地があっても必ず神様からの守りが感じられました。 旦那様と喧嘩しても、結局は「あの土地でなくて良かった」と思うことが多いのです。

建てたい家が見つかったことで、その業者さんが土地も探してくれるとの話しになりました。
「こんな感じで」と要望を伝えて、建物の設計も土地探しもお任せしています。 その後から、私の心は非常に軽くなりました。 緊張感が抜けてホッとしたのか、疲れが「ドっ」っときました。(それが睡眠障害だったのです)

これって、神様と歩むことに似ているなって思います。
自分の力でも頑張れるけれど、専門家に頼めば 話はスムーズに進みます。 人生を与えてくれた人生の専門家である神様に、イエス様に従い尋ねて歩めば、確かな答えが得られます。 とっても安心です

今、良い土地にめぐり合いました。 これが神様の示す土地なのか、祈りつつ慎重に歩んでいきたいと思います。

今日は仕事です。 朝からブログしちゃって、遅刻だ~

「変わらないものはない」と、あるテレビ番組で説明しているのを見たことがあります。 分子の世界でこの世の中を見るときに、すべてのものが少しずつ変化しているとの事。

例えば、同じように見える目の前の写真たても汚れたり、色あせたり、割れたり、微生物がついたり…必ず変化しているし分子レベルでの変化は相当なものらしいのです。

私の体もある周期で変化しています。 皮膚が再生したり、食べた物で体質が変化したり。 昨日は元気だったけれど、今日は不調で気持ちまでふさいだり。 今もっている考え方も、出会いや体験、経験をすることで変化します。

聖書を読む私にも変化は起こる。 御言葉は同じでも、状況や経験によって受け取り方が変わるということ。 それは長い間クリスチャン生活をしている人ほど、感じてきたことだと思います。 人は変化する。 根底は変わらないという人もいますが、良い思いを持って神様に願うときに 善い変化が与えられると信じています。 

そう考えると、どんな人にも聖書を受け入れるチャンスはあるのだと思えて嬉しくなります。

永遠の命…

聖書で言われている「永遠の命」とは、単純に「長いこと生きる」という意味ではありません。

イエス様を知ってからは、この人生が終って後に許されて天国でイエス様に会えるのを楽しみに思う時もありましたが、聖書を読めば読むほど自分の持っている罪の深さ、信仰の浅さに 「私は天国にいける」と自信を持って言うことができなくなりました。 

ただ、イエス様から学んだ「本当の愛」を知ったことは この世に天国を見出せたような喜びでした。

今与えられた人生をより良く生きれたら…と思えるようになりました。 この希望がこの世で終ることのない「永遠」だと確信しています。 

ヨハネによる福音書17章

「永遠の命とは、

唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたが使わされたイエスキリストとを知ることであります」

本当にそうです。 

今は必ず過ぎ去ります。 人は変われます。 もしも、出口が見えない人生の迷路の中にいる人がいたら その重荷を背負って一緒に迷路から抜け道まで案内してくださる神様の事を受け入れてほしいです。 

変化の中にある私たちの人生を、永遠を与える素晴らしいお方が善い方向へ導いてくださいます。
もう三月です。 
4、5年ほど前に母と旦那様と3人で京都へ観光に行きました。 三月の中旬でしたが、雪が降りました。 
清水寺の屋根に降りる雪が 静かで美しかったのを覚えています。 …と落ち着いて書いてみましたが、その時は雪に備えた服装をしていなかったので 寒くて大変でした。

清水寺までの坂の途中にある店で昼食をとりましたが、とっさに入ったにも関わらず 温かいお蕎麦は美味しくて、3畳ほどの古い木造の離れのような場所で 裏道りに歩くお坊さん達と、木々の間から舞い降りる雪を見ながら 絵のような風景に心まで感動で温まりました。 

それから1年くらい後に、再び妹と京都に行きました。 早朝から学問の道などを ゆっくり散策しながら銀閣寺のあたりまで歩き、時間を見て、祈りながら導かれた「北白川」にある教会の礼拝に参加しました。 礼拝している家屋は、昭和初期を感じさせました。 

小さな部屋には、5人ほどの信者がいて 静かに取り次がれる御言葉に耳を傾けていました。 朝日の透き通って見える、隣の部屋の台所の明るい窓と外から聞こえる鳥のさえずりが、まさしくこの時に牧師がメッセージに語った聖書の言葉:

空の鳥を見るがよい。 まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。 それだのに、あなた方の父は彼らを養っていてくださる。(マタイ6章26節)

を心に深く刻むような情景でした。 この時に、知らない土地へ来て知らない人たちと会うという、特殊な状況もすでに用意された神様の計画と愛であると、感じることが出来ました。 感謝です。

ここ二週間で、土地を何ヶ所か見てきました。 その中に、購入をほぼ決めそうな土地もありました。 でも、面白いことに満場一致の決定も覆すような状況になり どれも購入には至っていません。 

その中で、気にもしなかった土地の事や、自分の中で生活に対する優先順位を知る機会になったので どれも良い学びです。 しばらくは、土地探しもお休みして 神様の御言葉を聞く よい機会へと時間を使いたいと思います。 

京都旅行で与えられたような最善が、祈って歩むときに必ず見つかると確信をもって。
新居を探すために、日々祈りつつ過ごしています。 日曜日に中古物件を見に家族総出で出かけました。 
その物件は何度か見に行っているのですが、図面と外観だけで興味はありませんでした。 でも、不動産やさんが薦めるので 「ためし」に中を見に行ったのです。

びっくりするほど広く、三世帯住居+母さんの美容室を叶えられそうな建物で なんと築6年。 4階からの眺めは絶景でした。 価格も安く、「これは買いだ!」と家族全員気に入って(私の旦那様以外)話は急展開に

月曜日には買い付けの申込書に印も押して、ウキウキ気分で土曜日の契約を楽しみにしていました。

「神様の御心がこの建物にあるのでしたら、無事に購入までお守りください。 そうでないなら、何らかの形で話を止めてください」 と祈り火曜日になりました。

土曜日に契約書を交わす事になり(売主がわの都合で)、急なので、改修場所の見積もりを出すために朝一番に担当者に電話をして、業者さんを読んで午後、現地で詳しく話しながら大体の金額を聞いておおまかな見積もりを出してもらいました。

夕方、帰宅してから旦那さんに説明しました。 実は、急な展開に彼は多少納得していない部分がありました。 でも、改修工事で気持ちも変わるだろうとの事で話を進めようとなったのです。

工事内容と改修工事の金額の結果を伝えました。

「ちょっと待って」とパソコンで なにやら計算し始めました。

彼が出した計算結果の総額が、新築を建てたほうがいいんじゃないかという内容になりました

びっくりです。

その後、夜中まで二人で計算し続け どんな家が理想かを話し合い、とことん意見を出し合って 結果、この中古物件は買わないことに決めました。

今朝、断りの電話を入れました。 担当者はとても一生懸命に良くしてくれたので電話を切るまで心苦しかったです。 お腹を壊してしまいました。 土曜日からずっと寝不足で、頭はフラフラです。

まさか、あんなに気に入っていた場所を自分で断ることになるなんて思いもしなかったので この過程には神様の導きがあったのだと感謝しています。 何か、守られたような気がします。

今回、短時間で沢山の学びがありました。 

ふだん、喧嘩も言い合いもしたことなかったのですが 初めて旦那様と大声でいいあいをしたりして かなり意見をぶつけ合いました、でもそれがかえって心地よいほどでした。 喧嘩といっても、建設的な話し合いと言った感じのものです。 とことん話し合うことがあまりないので、とても嬉しかったです

旦那様が今回の事を通して、私の母さんの事も大事に思って考えてくれているのを知ることができ、感謝です。

あと、もう一つ。

買おうとしていた物件は、負債を抱えている家族が担保に取られた家でした。 土曜の契約へと急がされたのも、売主が払わなければいけない借金があるためでした。 

家自体はとても綺麗でしたので、建てた始めの家族みんなで越してきた幸せな時が容易に想像できました。 それが、6年で手放さないといけなくなってしまったのは 本当に辛いところを全員で通らされたはずです。 

この物件を買おうとしたことで、そういう家族がいるということ(実際に会いましたが)を知るために 私達を神様があの建物まで導いたとしたら これからの祈りの課題に あの家族を入れなければと思いました。 

これからの人生を、あの家族が幸せに歩めるように 頭に描きながら毎日祈ろうと思います。 神様の守りと祝福が、善い時にあの家族に訪れるように。


この世の中の沢山の事から 私と私の家族を見守って 助けてくださる神様に感謝を 今回また更に強く思わされたのでした。


昨日の礼拝で、牧師が伝えたメッセージの中で心に残ったのは

「何でも 躊躇しないで遠慮なく神様に聞いてもらおう」でした。 

「神様を自分の人生に思う存分巻き込もう」と言っていました。 

天のお父様は何でも 正しい気持ちのところには最善の備えをしてくださいます。 わたしは願いがあっても十分に神様に話していないし、対話の時間もそれほど多くとってないと気づかされました。 

「人生に神様を巻き込む」…とても面白い表現だと思いました。  

遠慮せずに、日々の中にもっと多くの神様の言葉を取り入れるべきだと思わされました。

 私は涙もろい…と思っていました。 

小さい頃から「泣き虫」と言われていました。 悔しい時、悲しい時に人目をはばからずよく泣きました。 10代の頃の涙は親に怒られた時と別れの場で多かった気がします。 

20代になって、感動して泣くことが増えました。 映画を見たり、ドキュメンタリーを見たりと 良いものを見て「おいおい」と泣くのは気持ちがいいです。 感動を求めて映画を見る傾向がありました。  

30代になってからは、夜空の星とか、一緒に暮らしている犬たちの愛らしさだとか、神様が作られたものを見て「幸せ」を感じて泣くことが増えました。 

そして20代までと違うのは、精神的に追い詰められた人たちを見たり、その末に起こった事件などを見ると…一度、私も自分を追い詰めた頃を経験したからか 少しだけ気持ちが分かるので 涙が出てきます。

今日、職場の同僚と日野原重明さんの本の話をしていました。 

途中で、彼女は一昨年前に亡くなった母親を思い出して涙を流し始めました。 その彼女を見て、私は、彼女の気持ちになって思いやって泣くことが出来ませんでした。 私は自分の気持ちの冷たさにショックを受けました。

私の周りには、相手の気持ちになって悲しんだり泣いたり笑ったり出来る人が沢山います。 私は私が経験したことしか、涙のつぼまで刺激しないようなのです。 早く言えば、自分の事でしか泣けないのです。

相手と同じ気持ちになり、痛みを一緒に分け合える…そんな心の持ち主になるために 私は辛い所をもっと経験して 心を研がねばと思わされました。 

今日泣いた 私の同僚は 私のたわいのない話にも「いいね~」と言って 涙をウルウルさせます。 優しい彼女から学ぶことは多いです。 
今日はバレンタインでした。 ここ2年は買っていたのですが、今日は久しぶりにケーキを作ってみました。 昨日思いついて、でも、ギリギリまで買うつもりでいました。 でも、念のためにお菓子つくりの本は持って仕事に行きました。 

思いっきりやる気のないテンションだったので 絶対につくることはないだろうと思っていました。
お昼には、他の事務所で働くミホさんのベビーシャワーがありましたので 今夜のケーキの材料の買いだしの時間はなく、午後の仕事に戻りました。 

頭の中ではイチゴシフォンケーキ案が浮上していたのですが、以前に2度とも失敗したので二度とやるもんかと心に誓ったのでした。 神様は誓ってはいけないと言っておられます。 

先週食べた手作りのイチゴシフォンケーキの粒々の食感が忘れられずにいて今日 何度も頭をよぎったのでした。 

「いやいやいや、作る時間も、買いにいく時間もないしなー。めんどくさいぞ~。」

でもなぜか、いつもより早めの帰宅を指示されたので自然と足は大型スーパーまで向いていたのでした。 食品売り場をウロウロしながら神様に何を作ったほうがいいのか尋ねながら15分後…

レジに並んで買っていたのはやっぱり、イチゴシフォンの材料 呪いにかけられたロバのように、イチゴシフォンの材料を買い込み家路に急ぐ私。

台所でケーキ作りの準備をしていると な、なんと!シフォンケーキの焼き型がない! 

「はい、作らないほうがいいんだね」 ぶ~

とか、一人でブツブツいいながら 妹に電話。

彼女がくれたアドバイス 「牛乳パックでケーキ焼けるらしいよ」の後に、チラ見したケーキのチラシにも牛乳パックでのケーキ型つくりの方法が。

「これって、シフォンケーキを絶対に今作れって言ってるようなもんじゃありませんか?」とか言いつつ(誰に?) しょうがなくやってみたら…なんと綺麗に焼けたではありませぬか!! 嫌々ながらやっている割には、手際よく物事がスムーズに進む 進む。

「こんな気持ちで焼いたものなんか、美味しくないはず。。。食材たち、ごめんね~」
反省しつつ、ホイップで飾りつけ。 なんだか、見た目も悪くない仕上がりに。

ケーキを作った後、夕食の準備まで出来て 普通の時間に旦那さんをお迎えすることが出来ました。 
パチパチパチ…

ケーキの味の感想は…「とても美味しい」ということでした。 

正直者の旦那さんなので、余計に嬉しかったです。 ほんとに、よかったです。 あの、シフォンの型がないと判明したときの、気持ちの下降線ぶりったらありませんでしたよ。 だけど、それを乗り越えてのイチゴシフォン…作ってよかったです。 達成感です

甘いものって、幸せな時に必要なんだなって思いました。 ケーキ職人達は、食べる人たちの驚く顔と、その後すぐに来る幸せそうな顔を見て 作る喜びがどんどん増すんだろうなと羨ましくなりました。 いい仕事だ~。

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愛犬、次女のトゥトゥが昨日またもや大活躍しました。 

二匹を散歩に連れて行こうと車に乗せてエンジンをかけ、汚れた窓を拭いてから、いざ乗車しようとしたら、「カチャ」と音がしました。 「??????」

神様の創造物、トゥトゥが前足で車の鍵を閉めたのです。 私の頭の中は真っ白に。 鍵もついたまま、かばんも中、私は外… 「どうするの…」 

私は汚れたティッシュを右手に、しばらく立ち尽くしてしまいました。 

しばらくキョロキョロ。 (なぜか半笑い)
と、隣のトヨタさんが目に入りました 「!」
走って、

「すいません、散歩しようとしたら犬が中にいて、鍵をしめて、窓を拭いてたから、かばんも全部中にあって…」 (焦って、いらない情報まで与える始末) 

店員さん「あ、内鍵したんですね」   私 「…はい」

寒い中、15分くらいかかって鍵を開けてくれました。 トヨタの店員さんが天使に見えました、ありがとう! 何度もお礼言いましたよ~。。 どうなることかと思ったので。 住むべき所は、トヨタの隣です。 

トゥトゥめ~。

非常事態の時の行動に、二匹の性格が出て面白かったです。 

大きな人たちが両サイドの車のドアをガサガサしている最中、コパンは事態を察したのか目を閉じて窓際でおとなしく固まっていました。 寒くて死にそうなのかなと心配になったほど。。 その側で、鍵を閉めた超本犬トゥトゥの方は、忙しそうに両方の窓を行ったりきたり。 鍵を開けようと頑張っているおじさんたちに吠えて攻撃&応戦(?)。 そして私に向かって、「どういうことよ??」って顔で吠えたりしてました。

分からないとはいえ、トゥトゥのあまりの騒ぎように 「は~あ」とため息。せっかく開けても、また閉めるんじゃないかとハラハラしながら見ていました。
 
ドアが開いたとき、嬉しくて二匹いっぺんに私の膝に乗る始末!! 「怖いおじさんたちがいたよ~」とか思っているような感じでした。 

ちょっとー運転できないんですけど~  ふふっ。 やっぱり、可愛いなあ

きっと神様も不器用でおっちょこちょいの私達を見て、こんな風に「可愛いな」と思っているのだわ。


この一週間、沖縄も雨続きでしたが今朝は薄い雲の切れ間から太陽の光が見え隠れしています。 長い間、太陽を見ないでいると その隙間の光だけでも見ることが出来たら それだけで幸せで、生きる力が湧いてきます。 

映画、「マトリックス」の最終章の戦いのクライマックスシーンで 厚い雲にかかった灰色の地上から一瞬だけ雲を突き抜けてその上の空間へ出るシーンがあります。 そこは無音で、白い雲の絨毯が延々と続く空間です。 そして、まぶしい太陽の光が悪と戦う主人公を照らし出します。 彼女はそれを見て「きれい」と言い、涙を浮かべ、またあの暗闇に戻っていきました。 感動しました。

この映画はストーリーがとても聖書的で、三部作になっていますが最後の最後まで主人公ネオの行動にイエス様を重ねて見ることが出来ました。 作った方は、絶対聖書を読んでいるだろうと思っています。 私達はこの映画のように、精神的な暗闇にいると思います。 悪の力は善を求めれば求めるほど、大きく強く押し迫ってきます。 

映画の中ではネオが自己犠牲という最大の武器で、悪を倒します。 この世で唯一、私達が悪に対抗できるのは「自己犠牲」です。 イエス様のように命を捨てて私たちの罪を贖ったのも自己犠牲の「愛」の表しであり、命を落すまでなくても他人に対する「敬意」や「尊敬」、「思慮」には自己犠牲 (自分の事は構わない、相手を尊重する)の心が必要だと感じます。

「仮想世界」という柱がストーリーの中にあります。 主人公ネオは、沢山の情報に流され追いかけられます。 自分の思い込みで作り上げた世界に私達は住んでいて、実際にそれらは 発達したメディアなどの情報網から選んで私達は限界を作り上げているのです。 沢山の同じ自分ではなくて、一つの大事なもの…個性は神様が与えてくださったかけがえのないものです。 思い込みと限界を捨てて、自由に光を浴びることが出来るように 神様は願っています。 

長くなりました。
最後に大好きな「アンネの日記」より…。 

(アンネの日記を読んだことがない方へ。 オランダに住むユダヤ人だったアンネフランクは、1942年から1944年まで自分宛ての日記をつけていた。 ナチスに連行されるまで小さな隠れ家に家族と他の家族の8人で二年間過ごした。 捕らえられてから、1年内に捕虜収容所で息をひきとりました)

「追伸ーペーターへ、思いつくままに。

私達はここで、とても寂しい思いをしています。不自由なことは沢山ありますし、それも随分長い期間になります。 あなたと同じに、わたしもそれを寂しく感じているのです。 たんに物質的な面のことばかり言っているとお思いにならないでください。 その点では私達は恵まれすぎるほど恵まれているのですから。 そういうことではなく、わたしの言いたいのは、精神的な面のことなのです。 あなた同様、私もやはり自由にあこがれ、新鮮な空気を渇望していますが、いまでは、そういう不自由にたいして、私達はじゅうぶんな代償を得ていると考えるようになりました。 代償と言っても、内面的な代償のことです。 

今朝、窓の前に座っているとき、私は外を眺めて、そこに自然の奥深さと、神様の存在とを実感として感じました。 そのとき私は幸せでした。 そしてぺーター、ここでその幸福を手にしている限り、自然に対する、健康やそのほかの多くのものに対する喜びを感じている限り、そのようなものをずっと手放さずにいる限り、人はいつでも幸せをつかむことができます。 どんな富も失われることがあります。 けれども、心の幸福は、一時覆い隠されることはあっても、いつかはきっとよみがえってくるはずです。 生きている限りはきっと。

孤独なとき、不幸なとき、悲しいとき、そんなときには、どうかお天気のいい日を選んで、屋根裏部屋から外を眺める努力をしてみてください。町並みだの、家々の屋根をみるのではなく、その向うの天を眺めるのです。 恐れることなく天を仰ぐことが出来る限りは、自分の心が清らかであることを自覚し、そして、これからもきっと幸福を見出せると信じている限りは、いつでも。」

こんばんは。 クリスチャンなのに、気持ちの落ち込みがピークに達した34歳です。

「人間だもの、こんな日もあるさ!ははっ」 なんて自分に言い聞かせたりしてました。

雨だしな~。 寒いしな~。 月末だしな~。 

今朝、職場で表彰を受けたのですが (職員全員もらったよ) 意外や意外、喜ぶどころか色んな気持ちが溢れてしまって 泣いてしまいました。 上司も同僚もびっくりしたと思います。 しかも、時間が経つとマイナス思考に陥り 帰るときまで落ち込んでいました。 「なんで?」

きっと、3年近く働いてきて上司に一度も認められた覚えがなく 悔しくて何度も何度も涙したので その上司から表彰状を受け取るという 予期せぬハプニングに、これまでの事が走馬灯のように思い出されたのでしょう。 本来なら嬉しいとされる表彰も、逆に悔しさを思い出す結果となったのでした。 

すぐに開いた聖書には 「誇り高ぶるな」 と書いてありました。 そうです。 上司に認められなくても、天におられる神様は全て見ています。 すでに、私に十分な必要を与えてくださっています。 私は栄誉を受けるために働いているのではなく、仕事を円滑にこなすための車輪の一つという大切な役割があってこの場にいるのです。 

神様は、ここで経験することが私に必要だから与えました。 この「複雑で悔しかった気持ち」も、人の痛みが分かるという収穫につながったら全てオッケイ!です。 はい。


話はタイトルまで戻りますが、犬が好きです。
今日もお昼時間に本屋で犬の本を立ち読みし、写真の犬達の可愛さに幸せで顔が緩みました。 

「今の仕事を辞めたら、手に職がないと駄目だな…。 どんな仕事があっていると思う?」 と相方(旦那様)に聞いたら、「犬を守る仕事」と即答が。 獣医になるとか、動物の介護師になるとかだと。 「お前の犬好きハンパじゃないだろ~」と。

いつか分かりませんが、私は必ずきっと、犬の生きる権利を守り 生命を守る仕事をしていくと思います。 年々その思いは強くなっています。 イギリスに留学していた頃に、動物保護に対する考え方が進んでいるのを目の当たりにして感動し、それ以来は心の中に「いつか弱い、優しい、可愛い犬達を守り励ます仕事がしたい」という思いがあります。 言葉も話せない、力も弱い、自給自足は無理な 弱い動物が簡単に思われ、扱われているのを阻止したいのです。

イギリスでは虐待までいかなくても、簡単に動物は飼えないし 動物警察がいて、良くない飼い方をしている買主は本当に罰せられます。 動物も保護されます。 

犬が好きな理由は、優しくて裏切らず、愛を与えて、従順だからです。 飼い方をあやまると、甘やかされた人間の子供のようにヤンチャに育つ場合もあって、牙をもっているので危険である場合もあります。 でも、基本的に純粋でひたすら優しい生き物です。

うちの二匹は欠点なんて、臭いくらいで(それも今では香ばしく感じます) いつも愛と笑いとをもらってばかりです。 餌をあげる意外は何もしてあげれなくて、ごめんね。 

犬は私がもっていないものを沢山持っています。 私のことでもありますが、人間は裏切り、本当のところは隠し、裏切り、自己中心で、同じ視点でものを見ないと軽蔑する所もあり…。 もちろん良い人、すばらしい人たちも沢山沢山います! が、私は大切にすれば絶対に裏切らない、犬たちが大好きです。

犬は聖書に書かれている「愛」に関しての記述に当てはまると思います。

コリント第二、13章4-7

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


を「犬」に変えて…

犬は忍耐強い。 犬は情け深い。 ねたまない。 犬は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない…(人間の決めたものは教えてくれたら守ります、褒められるだけで嬉しいのです、餌と散歩を忘れても怒れません、飼い主さんがなでてくれたら幸せです)

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。(身体に悪い安い餌は飽きるかな、お値段お高めでも本物の餌がよいです)
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(そのまま主人に忠実な犬の姿です)

となりました。 うん、うん。 (← もしや満足?)

犬を守るために、今出来ること… う~ん。 とりあえず、柔道を習いたいです。

最近は、人と話していて私の言葉にも心にも神様の愛はありませんでした。 日々を楽しく過ごしているのですが、口から出る言葉に聖書から学んだことは一つもありませんでした。 それどころか、批判や中傷にのったりと…悲しくなって、昨日の日記に書きました。 

それに対しての神様からの答えをもらったので、書いてみます。

********************

新約聖書、ヤコブの手紙4章1~10節より


「何が原因で、あなた方の間に戦いや争いが起こるのですか。 あなた方自身の内部で争いあう欲望が、その原因ではありませんか。 

あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。 また、熱望しても手に入れることが出来ず、争ったり戦ったりします。 

得られないのは願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、自分の楽しみの為に使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

神に背いたものたち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。 世の友になりたいと願う人は誰でも、神の敵になるのです。

それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。 『神は私たちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる』

それで、こう書かれています。 
『神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。』

だから神に服従し、悪魔に反抗しなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げていきます。 

神に近づきなさい。 そうすれば、神は近づいてくださいます。 罪人たち、手を清めなさい。 心の定まらない者たち、心を清めなさい。 

悲しみ、嘆き、泣きなさい。 笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。 主の前にへりくだりなさい。 そうすれば、主があなた方を高めてくださいます。」


*******************


「神に近づきなさい。 心の定まらない者たち、心を清めなさい」 が一番、心にずしーんと来ました。 ヤコブの手紙は今、一番私に必要な箇所かもしれません。。。。

次に住む家探しの事に関しても この御言葉は祈り求めるべき事柄を示してくださいました。 神様に具体的に願うこともせず、「与えられた所に喜んで住もう」としか思っていませんでした。 実際に探していると ビジョンがないので 良いと思う物件が見つからず いつの間にか 物件の金額や土地の価値などに目が行き、全く考えがまとまらず、焦りが表れて喜びがありませんでした。 それどころか、始まったばかりなのに 不安が出てきたのです。

この機会を使って、慎重に計画し それを喜んで神様に示すべきだと思いました。 いつのまにか、「神様が最高の物件を用意してくださる。私たちの想像しているものよりも遥かに良いものであるはず」と期待するだけで、努力をせずに、ただの神頼みになってしまってました。 私たちが実際に希望を提示しないと 「遥かに良い」かは比べられないと思いますし、願いをし対話を求めることを神様は一番望み、喜んでいるはずです。 

今は個人的な思いが、ぼんやりと頭にあるだけで、これから共同生活する家族の気持ちと希望を具体的に確認しあっていませんでした。 

神にもっともっと近づいて、将来のビジョンを強く心に抱いて 必要を備えてくださる神様に服従していかなきゃや~。 

今日は仕事を早めに終えて、おじいちゃんのお見舞いに行ってきました。 腰を痛めて入院中。 リハビリで毎日忙しいとのこと。 「病気じゃないのに入院してしまって、心配させたね。 おジーは元気だよ」と笑顔を見せてくれた。 そして、「うー」ってうなり声を出しながら痛そうにベッドから起き上がった。 そして私に「こっちに座りなさい」とベッドに私を座らせて、椅子がないので自分は杖をついて立とうとした。 「いいよー!おじー。 私は仕事で座りっぱなしだから」と言って 慌てて断った。 腰痛めて入院なんでしょ~?(; ;) 優しい。

おじーは88歳になるのに、今回の腰痛が久しぶりの病院。 戦争の時は満州に8年いて、終ってからは5年前まで畑仕事で食べてきた。 とても体が丈夫だ。 だから、このお正月までは「おじーは若いよね~」とか言うと 年寄り扱いしてほしくないようで、「あたりまえだ」と怒り気味に言っていた。 昔からこんな調子。 優しく見えるけれど、実は頑固で強い沖縄のおじーだ。

なのに今日はめずらしく、「老化だよ。年取ったら、こんな風に病院に来てしまうさ」なんて言っていた。入院して寂しいのかな。 だけど 帰りには強がり言って「もう来なくていいからね。ただの老化だから、すぐ退院だからね。」といっていた。 私に対しての思いやりの言葉だと すぐに分かった。

おじーには自慢の奥さんがいる。 今は老人ホームにいて(足が悪いので車椅子) 仲間と元気に過ごしている。 年上女房だ。 おバーは多趣味で、いつもせっせと何かを作っている。 今頃の季節だと、手編みのマフラーや帽子。 造花も作るし、人形も作る。 これで今まで畑仕事と家事育児、全部やってきた。 歌も上手く、三味線も上手い。 話すことが面白いので、どこのデイケアセンターに行っても人気者で看護師や周囲の人々に愛される。 それを、おじーは見て喜ぶのだ。 

自慢のおばーは昔、強い女だった。 戦争中、一人で5人の子供を育てた。 彼女いわく、「近所の10名くらいは、おばーのオッパイで育った。 良く出るオッパイだったから、他の子供もみんな育てたさ。」 笑いながら聞いていたけれど、よく考えてみたら、私が友達や近所の人の赤ちゃんにお乳をあげるということになる。 すごいんですけど。。。

強い女、おばーは つらい更年期になって(55歳くらいの頃)「死にたい」と思った。 その頃にイエス様を夢で見た。 これは私が小学生の頃から言っていることで、初めて教会に連れて行ってくれたのも、おばーにだった。 何も分からなかったので、信仰には直接つながらない経験だったけれど、今となっては嬉しい思い出の一つだ。 

私は小学生の頃、祖父母の家にあずけられていたので 眠る前と起きた時に おばーが「健康祈り」と称して必ずイエス様に祈っていたのを見てきた。 起きてすぐ10分くらい祈り、眠る前にもひざまずいて長いこと感謝の祈りをしていた。

今、こうして書いていて 自分でも忘れていた記憶を思い出せた事に驚いてます。 教会と祈ることは、おばーの影響だったんだなあ。 嬉しい。

仏壇のある家だったので、おばーは沖縄の古くからの先祖崇拝もきちんと守っていた。 「神様は愛の方だから、何でも大切にするのを喜ぶ」って言っていた。 聖書も読み、祈り、受け継がれている土地の文化も守っていた。 女であり、母であり、嫁であった…全てをこなしていて、イエス様にも出会えたんだなあ。。。。

おじいちゃんと今でもラブラブのおばあちゃん。 その秘訣のようなものを、以前に聞いたような気がする。 誰に対しても言葉では負けず強かったおばあちゃんは、唯一、おじいちゃんには勝てなかった。 何かおじいちゃんに言われたら、すぐに涙目で言い訳をしていたのを覚えている。 そして、私によく言っていた言葉が

「負けるが勝ち」 と 「幽霊よりも怖いのは、生きている人間」 

前者は痛いほど分かるし、私がまだ乗り越えきれないもの。 永遠のテーマになっています。 理不尽なことに遭遇するとすぐに怒ってしまう私…この言葉と、神様の愛があるから少しずつ穏やかな性格になってきました。 今でも何かあると、「負けるが勝ち」を思い出します。 この言葉に従って生きれたら、旦那様や家族、周囲の人を幸せに出来るのだろうなあ。  

おじーとおばーのラブラブの秘訣はこの言葉にあると思います。


今年も一ヶ月が過ぎようとしている。 はやい~。
今日は久々に晴れていたので、二匹を連れてちょっと遠くまで散歩に出かけました。 風が気持ちよかったです。 

最近、自分の行いについて反省すべき点を示されて ちょい落ち込み中。 聖書を読む時間がないので、世の波に乗ってしまいました。 (しかも自ら乗りに行きました) 聖書を離れたら、本当に駄目です。 私。 

世界中のどんなものよりも美しく優れた神の言葉を、日々心に摂りいれる事ほど私の体と心にとって大切なことはないと思います。

ふたたび神学校や聖書学校に通いたいなと思いっています。 独学では学べない、歴史背景もイエス様が過ごしたイスラエルの土地の文化も含めて聖書を学び、また各国や原語での意味と解釈の違いを本格的に学ぶことで、あの完璧で美しい神の言葉がさらに心に深く刻まれるのです。 

最近気がついたこと。 暗闇が怖くなってます。 聖書に強くつながれているときは、全く怖くはありませんでした。 悪霊さえも支配される、全能の神に守られていると確信があったから。 この時の「神意外は何も恐れない」思いって、昔に迫害され殺されたクリスチャン達もきっと同じだったのだなと 今、気がつきました。 死をも恐れず、「神様から頂いたこの身体は、いずれはお返しするんだ」という気持ちで 毎日をひたむきに大切に、神様だけを見上げて生きていたんですね。 

今の私なら、迫害されようものなら「え? クリスチャン? この私が?」って言う気がする。。。(--;)

私は聖書から離れると、自分の考えだけが頭をグルグル回り 思考回路がショートして機能に障害が現れ、焦ったり、批判的になったりします。 視野も思いっきり狭くなり、神様が用意してくださった自然や動物達の完璧な美しさに目が行かなくなります。 世界に目がいかなくなり、自分の生活に追い回されます…


わたしは確信しています。
死も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリストイエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことは出来ないのです。
(ローマの信徒への手紙8章38~39)


この言葉を胸に生活していた頃に、私を創ってくださった神様に、帰ろうっと!

こんばんは。 神様に許され、癒されて、心も身体もぷくぷくに膨張した私です。

私のランニングパートナー、コパン(1歳メス)は最近大人になったので むやみやたらには走らなくなりました。 私としては、以前のようにコパンには精力的に私と走ることに生きがいをもってダッシュして欲しいのですが、どうやら無理はしたくないようです。

私とコパンは何処か似ていると 旦那様にいつも言われるのですが、近頃はコパンの体の線もまあるくなってきて無理はなるべくしない…と 更に似てきました。 どうしましょ~。

そんなピンチの二人のもとに現れた 救世犬トゥトゥ(10ヶ月、メス)! 私達の最近の散歩は、彼女の励ましと要望のみによって成り立っています。 はたから見れば、ダッシュで通りを走る「黒いちっこい犬に特訓を受けている人間と茶色い犬」に見えると思います。(運動公園でやらないと、危ないぞ)

トゥトゥの体の曲線美は私達とは程遠く、細くしなやかで 黒い毛はキューティクル満載です。 四つの足もそれぞれ細く長いので9頭身かと思われます。 魔法をかけて人間になったら、トゥトゥはきっと伊藤美咲になるだろうと思います。 コパンは… 私は… 。 (ただ、入れ替わるだけなんじゃないの?)

以前の日記にも書いたのですが、トゥトゥはもともとコパンの遊び友達として緊急養女と受け入れられたのでした。 (私の一目ぼれもあったけれど) 神様の計画は素晴らしく、コパンだけの需要のみに終らず、私にとっても頼もしい「ランニングコーチ」となったのでした。 

あ、でも、新コーチ、走っている途中で通行人に攻撃するのは やめてほしいです。 あと、興奮すると 旧コーチを噛むのもやめてほしいです。 旧コーチ、そのあと凹みますから。。 このまま、順調にコーチとしてのお仕事がんばってほしいです。 よろしくです。 
私は怒られないといけない。 最近、怒られていない気がする。 仕事で上司に注意を受けた時、私の仕事への取り組み方が雑で抜け穴だらけなことに気づかされた。 注意といっても、「確認」のようなものだったのだけど言われた時に良い気持ちがしなかった。 自分の働く姿勢を問われたように感じてしまった。

一生懸命、時間いっぱい忙しく働いて私の脳みそは毎日ぐるぐる ぐるぐる 回っています。 働くことが楽しくて、早く過ぎていく時間が嬉しくて 今いる場所を用意してくださった神様に感謝しています。 だけど、怖いと思ったのが 「最近、怒られる機会がない」ということ。 昔だれかが、「怒られなくなったら最後」と言ってたのを思い出した。 どんな意味だったのかは知らないけれど。

上司に注意された時に、注意された事意外で私が見落としていたことに沢山気づかされた。
改良の余地がある自分に、始めは落ち込みモード…でもすぐに 向上心のようなものがムクムクと心に生えてきた。 もっと良くなれるのかな?!

注意されたり、怒られることがないと 自分の質のようなものが今以上には良くならないと思う。 それに、ちょっと怒られただけで すぐにカッとしてしまう。 「そうじゃない」と弁解しそうになる。 でも、誤解されてもいいから 相手の言い分と状態をよく聞いて理解することが大事であって 相手を理解しないと、私の事も理解してもらえないだろう。 

やばい! たまには怒られないと駄目だ。 私、今なら間に合うかな? このまま年をとってしまえば、旦那様より頑固な「一家の主 風オバサン」になってしまう。 「私が掟」になってしまう。 (><)いやだ~。 やめて~。

イエス様、この件に関して何か御言葉をいただきたいのですが。 
よろしくお願いいたします。

通勤途中の道は三通りあって、そのうちの二箇所が工事をしている。 その中の一つである坂道はもともとある道を、測量しなおし、新しい舗装をして広くなった。 もう一つは 山だったところを切り開いて道を新しく開通させてある。 それまで15分の距離だった場所が、そこを通れば2分もかからない。 かなり便利になった。

山だったところを道にする… その道を通るたびに、道を作ることの凄さを感じる。 何もない、木の生い茂った岩のある地面を道にする…始めに道を作る人、どんな世界においても そういう人達がいて、その人たちが苦労して開いて出来た道を 私達は難なく通っていく。

苦労の必要がなく、選択の権利も与えられているということは 必ずしも良いことではないのかも。
一つの道に長い時をかけてじっくりと向き合うことは ほとんどないだろうから。 
「駄目か」と諦めた時に、他の道を選べたら もうそこで、同じ道に戻ることはないだろう。

昔は苦労する必要が多く、忍耐が自然に備わった。 選択も多くなく、一つの道を究める人が多かった。
その人たちが通った、犠牲になったおかげで 私達は楽であり、快適であり、苦労しなくてすむ。 

イエス様が旧約聖書を正しく解き明かしたことで、私達は今、心に平安があり 恵みを感じながら日々を過ごすことが出来る。 でも、イエス様はそれをしたことによって 十字架にかかり犠牲となった。(他にも多くの理由を十字架は含んでいるが) それは全て、今日に生きる私のような罪人の為であった。

苦労しなければならない…とは思わない。 ただ、気をつけて 先駆者達が作った道を心にとめて、当たり前に車で通る道も自然破壊と過酷な労働の上に敷かれていると感謝したい。

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。 そして、そこから入っていく者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。 そして、それを見出すものが少ない」
マタイ第7章13節
昨日、徳島聖書キリスト集会から小冊子「野の花」が届きました。 日本全国のキリスト集会の方々から寄せられた文集です。 特に、心動かされた作文の中から抜粋して書きます。

「失うこと」  多摩集会、大田さん

私を最初にイエスキリストへと導いてくれた伯父が尊敬申し上げておりました、森本慶三先生(内村鑑三初期の弟子の一人)は、あるとき伯父に次のようなことを話してくださったそうです。
「人は聖書に従って 上へ昇っていくものと思っている。 が、実のところは下へ下へ下がっていくものだ。 大きく大きくなることじゃなくて、小さく小さく蟻さんになあれ、ということだよ。 聖書を読んで教えられることは、沢山のものを得ることではなくて、失うこと。 イエスは下へ下へ降りていったといっておられます。 随分沢山の涙も流さなくちゃなりません。 いや、今ではその涙さえも思い上がりであるように思われます」 捨てない限りは、「学問、憧れ、自尊心、偏見等々といったガラクタを捨てない限りは、ここからなかへ入っちゃいけないぞ、というところのあることが、その森本の言葉で初めて分かった」と伯父はいっております。…


私に戻って…
なんだか、じーんときました。 「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」 誰の言葉だったか覚えてませんが、まさしくそんな感じです。 仕事で時々、とても高い地位にいる方が謙虚で誰に対しても穏やかに接しているのを見たとき、本当に感動します。 相応に威張っている方に比べたら、100倍かっこいいと思いました。

聖書という、神様の言葉に触れて どんどん頭は垂れるべきだと思いました。 人生の目標は「頭をたらす」に、今、決定しました。 パチパチパチ…

 
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。 繰り返して言うが、喜びなさい。 あなたがたの寛容を、皆に示しなさい。 主は近い。 何事も思い煩ってはならない。 ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうていはかり知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリストイエスにあって守るであろう。」
ピリピ人への手紙 4章4-7節

この御言葉は、いつも心にある御言葉です。 でも、無意識に思い煩っている自分に気がつくことが多く、「喜ぶ」事は なかなか簡単なことではないと日々、思わされます。 少し前に、ある人が 喜んで生きることが神様への最高の恩返しと言っていました。 

先週の事ですが、仕事でやりとりのある人から「Aさんはもう、出勤できないの知ってるよね?」とメールで言われて 急だったので Aさんがいないことで仕事が中断されるので 「事前に知らせてくれなきゃ困ります」なんて少し強めに返事したら 「Aさんは亡くなったんです。 知らなかったんですね。」といわれました。

Aさんはまだ若い男性で、これからバリバリ仕事をしていく…って思ってました。 ショックでした。 死は誰にでも訪れるけれど、私はまだだろう…って思っています。 いつ死ぬか分からない。 だから大切に生きようと思って毎日生きたいけれど なかなか出来ない。 身近な人の死は、そのことを再び思い出させます。

コパンとトゥトゥのことに関しては、いつも死を意識して過ごしています。 「10年一緒にいれるだろうか。」という思いが 二匹を見るときに常にあります。 二匹が死ぬときに「生まれてよかった」と思ってほしいです。 死を意識するときに、喜びや幸せが大きくなってきます。

「私は必ず死ぬ」ということを、常に心に持って大切に生きていたいです。


眠いです。
金曜から睡眠不足です。 金曜は仕事を終えて、早速、実家の荷造りへ行ったのですがさすがに18年近く暮らした家だと荷物がハンパなく多くて、夜中まで作業に追われました。 家族が少なくてこれなら、他の家庭の引越しって 我が家にないものも沢山ありそうなので怖いです。

引越しによって、いらないものが削減され財布の中身と共に更にスリム化した私の実家。 引越し屋さんが土曜の早朝に来て、三時間ほどで引越しは完了。 天気は「雨」を見事にすり抜けて、三時間天気の良い中での引越しとなりました。 4階までの心臓破りの階段(しかも途中から細くなる)を、引越しのお兄さん達は見事にクリア。 さすが、元ヤンキー!(見た目で勝手にヤンキーと思っている) かっこよかったです。 お詫びに 吉本弁当とレモン水をセットで贈呈いたしました。

なかなかの眺めの、仮住まい。 修繕が必要な箇所はあったけれど、全て優しい大家さんが新品に換えてくれました♪ ガスコンロがないので中古品でもあったらと思い、従姉に中古品店を聞こうと電話したら 「あまっているから使わない?」と言われました。 え~!!!ガスコンロがあまっている家なんて、ナカナカないと思いますよ。 なんという幸運。 従姉よ、ありがとう (T-T)持つべきものは、物持ちの良い従姉だわ。

妹と二人で「ラッキーすぎるね。神様、ほんとに凄い」と、疲れながらも感謝に浸ったのでした。
居眠りしながら 過ごした日曜の礼拝も、心の底からの安らぎを感じて幸せでした。

今日、私は仕事でしたが 売った家を掃除していた妹によると…家を買った家族が4、5名でワイワイと見に来ていたらしくて 嬉しそうだったとの事。 我が家を購入した方は、一緒に見に来ていた家族に自慢げに話していたそうです。 聞こえた妹は「とても嬉しかった」とのこと。 それを聞いてますます神様の計画の素晴らしさを実感し、新しくそこに住む家族の、今後の幸せを祈りました。 

私にとって今いちばん幸せな瞬間は 人の嬉しそうな顔を見た時(沢山の人たちがそうであるように)。 でも、20代の後半までは 自分の中で「やった!」と満足があるところに 幸せな瞬間があった気がします。 それから少し変化し成長(?)したのか、奉仕精神のない無意識の自分の行為に人が感謝をしたり嬉しそうにしたりする時が嬉しかったりします。 

今回の事で言えば、「家を新しく買いたいから、やらなくてはいけない事」だった行為の「家売却」の過程で、思わぬ「買主の嬉しそうな笑顔に遭遇」してしまった時。 それが もの凄く幸せを実感させます。 

日々の事で言えば、愛犬コパンとトゥトゥに餌をつくり、ペットシートを換える…二匹に喜んでもらおうと思っていなくて、むしろ「やらなくてはいけない」と化してしまっている日常の作業に、横目に見てしまった二匹が嬉しそうに私を見てはしゃいでいるのに気づいた時 「やばい」くらい幸せです。。。

イエス様のように、自分の益を求めずに 自分が出来る範囲で周囲の人を幸せにすることを考えて穏やかに生きれたら、与えたと思っていた幸せが実は自分に返ってくるのだと思います。 今回のガスコンロのように、私があわてなくても神様の備えは向うからやってくるんだなと思います。

自分の利益は求めない…ただ神様にのみ、満たされる人生。 最高だなあ。
うーん、でも
そこまで至るには、まだまだ訓練だ~。。。 私、きっと、長生きするわ~。


怖いんですけど~。。
土曜日まで、あんなにドヨーンとおもーい気持ちだったのに 御言葉&友達のメールなどなどに励まされ見事に気分復活☆です。

日曜の朝、みるみるうちに気持ちが晴れていきました。 教会に行くのがワクワクして、楽しみでした♪ 「早く、あの優しく暖かい教会の中で聖霊に触れて、私の汚れを落としたい」 教会をこんなに愛おしく感じるのは久しぶりの事でした。 慣れてしまうというのは、寂しいことです。。。こんなに神様が好きなのに、「熱」が冷めていた事に気づかされました。 牧師や伝道者の方々の、伝道に対する情熱の冷めない凄さをこんな時に思い知らされます。 

どんなに大恋愛した後の夫婦でも、いつまでも互いを情熱的に愛することは難しいですよね。。。初心を忘れないことは本当に努力が必要です。 相手の事をいつまでも尊敬し、なおかつ、相手に愛されるような自分を忘れずに保つ…(><;) 新婚一年目にして、すでに原型をとどめていない私…どうしましょ~

この2週間ほど、病気をきっかけに気持ちが落ち込み、自分の方向性、仕事の事、実家の引越しの事などで思い煩ってしまいました。 神様から離れてしまって(気づいてなかったけれど;) 更に気持ちも病気も悪化しました。 土曜日からジワジワと、聖書などを通して神様から励ましと私の罪の示しを受けて回復の方向へ… 


そして日曜日。 礼拝のメッセージは出エジプト記16章でありました。
イスラエルの民が約束の地に着くまでの40年のあいだ、神からモーセを通して語られたメッセージと与えられたマナなどの備えについてでした。 

実家の仮住まいへの引越し、これから住む家を探すこと…問題が次から次へとやってくる最中で不安定な状況にいて与えられたメッセージでした。 今の私達の状況に当時のイスラエルの状況が重なりました。 「最善を必ず与える神に安心して聞き従うこと。 どんな状況でも、飢えることがなく必要が与えられる。」は、礼拝中に私の魂に力を与えてくださいました。。(私の家族も同様)

あと一週間以内に、家を渡さなければならない。

この「無謀」と思えることを、神様は私達のような小さな家族に「乗り越えられる」と礼拝のメッセージを通して語ったので 教会から帰ってからは、引越しの為にやらなければならないことがスムーズに進み、今日の夕方までに引越し先のアパートの契約の話まで進みました! 引越しやさんと明日の夕方、見積もりで会い土曜日にはいよいよ引越しです♪

アパートも、土曜に不動産屋を三軒回りました。 夕方ぎりぎりに回ったので時間もないのに 「ペットOK,家賃4万円台、2LDK、駐車場付き、角部屋、広いベランダ付き、バスタブ付き」という夢のような条件を満たした物件に出会えました。 私のほうが、そこに住みたいくらいです。

引越しやさんだって、土曜の午後は難しいかな…と思ったのですが連休もあってか、ギリギリにかけたにも関わらずすぐに予約することが出来ました。 感謝です。。。

10月に「家をうろう」発案、11月に不動産に見積もりをさせ、12月広告に出し、下旬に無事売却し、クリスマス&お正月を過ごし、1月12日には引越し、15日に家の引渡し…となりました。 夢のように、あっという間ですけど~。。。畏るべし神様!

神様に引き続き、祈り委ねながら歩んでいきます。 山あり、谷ありも天地の創り主と一緒なら安心です。 祈りとは「神頼み」ではありません。 自分で努力をしている中、正しい方向へ導いてもらうのです。 努力はさせて下さいます。 昨日の礼拝のメッセージでも同じ事を言っていました。 「祈るだけで何もしないのではなく、伴う努力を惜しまずする時に天で見ておられる神様が 喜んで願いを聞き入れてくださるのです」と。  

努力しようと選択できる環境に置いてくださる神様に感謝。 出エジプト記のイスラエルの民のように、沢山の恵みを与える神様にブツブツ言ってしまう、掟に従わなかったりする私の事を 忍耐強く待ち、愛してくださる神様の大きな愛に感謝です。



今日から仕事でした。 連休明けで、ブヨブヨの身体と脳をリセットできました。 ここのところ、病気が続いたせいなのか 久しぶりに気持ちがブルーなのです。 私はよく夢を見るのですが、夢までダークな内容です。 元旦の夢では、武士に殺されました。 3年に一度は夢の中で武士に殺されます。 何なんでしょうか。 

昨日は出張中の旦那様も上京したので、家に一人でいるのが寂しくて (コパンとトゥトゥはいるけれど) 寒いけど、洗車をしました。 買ったばかりのようにピカピカになりました。 車も喜んでいるのか、乗り心地も最高です。  

この一週間ほど、自分の全てが嫌で 「リセットしたい」と思い続けています。 こんな気持ちは久しぶりです。何もかも中途半端な自分が嫌です。 そう思っても、良くならないことは分かっています。 。

忙しく体調を崩した時期に教会に行けなくなるのが続くと、こんな風になってしまいます。 いつも神様から、教会のメッセージを通してどれだけのパワーを貰っているのかが分かります。 一人で聖書を開く時間も大事ですが、やはり教会という神聖な場所には他では得られない力が集まっていると思います。 

メッセージを取り次ぐ牧師さんや教会の奉仕の人々に対する祈りがどれだけ大切か。。。。こんな日は嫌というほど思わされます。 自分の生活を大切に出来るのも、神様が用意してくれた教会と暖かいメッセージを取り次いでくれる牧師さん、熱心で明るい教会員の方々がいて私が神様に向き合える場所を守ってくれるからです。

それに比べて、私は私に出来る神様への恩返しだとブログを始めたのですが、神様の事を書くなんて大それた事を思ったんだなと 今は傲慢だった自分の気持ちを反省しています。 結局は自分の考えだけを書き連ねて、自己満足になっています。 教会に距離を置いている自分が、とても情けなく 小さく思えます。

神様の計画も愛も何も判っていない、無知な私。 でも、そんな私を変わらず愛し、必要を備え、訓練してくださる神様に感謝しても しきれないです。


昨日開いた聖書に、こう書いてありました。

「あなたがたは、あすのことも分からぬ身なのだ。あなたがたの命は、どんなものであるか。 あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは「主の御心であれば、私は生きながらえもし、あのこと、このこともしよう」と言うべきである。 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。 このような高慢はすべて、悪である。 人がなすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」
ヤコブの手紙4章14節


先々を考えて自分勝手に心配し、自分の心の声に従って歩んでいた事や 神様に相談せずに問題を自分の知恵で乗り越えようとした事が思いだされました。 「知っている」 と思っている時ほど 実は「知っていない」。 恥ずかしいです。 

そして、今日 出勤してから貯まった仕事をこなしていて、ずっと前から改善しなければならない問題が発生しました。 

またブルーな気持ちで帰宅し、ブログを書く前に昨日の「ヤコブの手紙」をもう一度開いて読みました。 そこに

「あなたがたのうち、知恵に不足しているものがあれば、その人は、とがめもせずに惜しみなく全ての人に与える神に、願い求めるがよい。 そうすれば、与えられるであろう。」 ヤコブの手紙1章5節

とありました。 神様、この部屋に監視カメラ置いてません???

なんだか、ここまで書いて 気持ちがスッキリ☆してきました。。。


今から、自分自身のリセットの為に…

服をいくつか処分しようと思います! 本も。 リサイクルに出してきます。 いらないものは抱え込まないで、これからは、好きなものは手直ししてでも大切にしようと思います。 

神様の言葉、周囲の人々、家族…に励まされて支えられて、また復活!するのでありま~す♪
ふふふふふ… (あれ? 治ったみたい?)



トゥトゥが昨日、怪我をしました。 両前足の肉球をはがす大怪我です。
血が出て、肉球の一部がぶらさがっています。 痛そうにして、私が触ると嫌がります。 涙がちょちょ切れそうです。 事件の時に私は現場にいなかったので、原因は不明ですが 私の旦那さまは「俺が悪い」と謝っていました。 

見ていると、コパンが一生懸命怪我した場所をなめていました。 コパンがなめるのは痛くないらしく、トゥトゥはじっとしています。 二匹は寄り添うように眠って、トゥトゥが痛がっているとコパンは心配して起きて傷口の匂いをかいでいます。 血がでていたら、またなめます。 見ていると心がジーンと温かくなりました。

コパンのお友達として去年の五月に家族の仲間入りをしたトゥトゥ。 同じ犬種とは思えないほど、落ち着いたノンビリ屋さんのコパンに比べ、落ち着きなく好奇心旺盛なトゥトゥ。。。沢山けがもしました。でも、いつも明るく怪我の事を忘れて走り回ってます。 その天真爛漫さが 皆を和ませます。

飼ったときは、正直、「間違いだった」と思ってしまいました。 心ある生き物であることを忘れていたのです。 コパンが人間のように落ち着いているので、犬らしいトゥトゥを躾たり訓練しないといけない大変さを気づかされて… でも、飼ったときは「コパンに友達を」とずっと祈って与えられたので 「このこだ!」と思ったのです。

ちょっと、焦ってたのかもしれません。 私は今しか見えないことが多くて、神様に答えを尋ねつつも 信頼していなかったのかと反省しました。
今回、怪我をしたトゥトゥを介抱するコパンを見て やっぱり神様はコパンの姉妹としてトゥトゥを与えてくださったんだと感謝しました。


f9901074jpeg怪我をした時、違うルートから二匹を散歩させたので 一緒に歩きたかったトゥトゥはコパンを求めて歩くのを拒否し、それを引っ張った旦那様のリードが強くて肉球をすりむいたのでした。
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プロフィール
HN:
ジェニ
年齢:
50
性別:
女性
誕生日:
1974/01/11
職業:
事務職です
趣味:
犬、音楽を聴く、お笑い番組を見る
自己紹介:
イエス様と聖書が大好きです。。
他に好きなものは音楽とヨーロッパと洋服。

現在http://ameblo.jp/kopa1tutu2/で、出産とわが子についてのブログを更新しています。そちらもこちらも共々、よろしくです~。

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