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私はこんな顔して、ロックが大好き
おばあちゃんになっても、ロック魂は忘れたくない。
現在つわりで、体がだるくて頭痛がガンガンきていても
ロックを聴けば あら不思議。 とたんに 細胞が活発化して 体の不調も一瞬どこかへ飛んでく。
たまに うちのチビ犬らに協力してもらって、みんなでロックに合わせて
頭ふりふり、ジャンプしたり 踊ったりするのがもの凄く楽しい
音楽って神様からの贈り物。
音楽が心と体の不調を取り除いてくれることは多い。
聖書をこんなに必要としていなかった頃は 音楽を聴く時が最高に幸せな時間だった。
音楽を楽しむことが出来て、好きな音楽にめぐり合えたってことは神様からの恵みだったんだーって
今更ながら実感。
映画や本を読む以上に、音楽で どんなところにも行けたし、
どんな人にもなれたし、何でもやってみようと元気が湧いてきた。
今でもそれは変わらない
こんな人、ぜったいに多いはず。 神様、ありがとう。
現在の私。
聖書を読むとき、
キリスト者の良い話を聞くときに ロックを聴いてるときと全く同じな
激しい感動が心からあふれ出るような気持ちになる。
聖書ってロックだな~って 思う。
最高!
ちょうど今、外出から帰ってきて
毎日パソコンに配信されている「今日の静聴」を読んで ロックな気持ちに
こるべさんの文章をちょいと、お借りします。。。
□■□━━━━━━━━━━━━━━━━Romans1:7━━━━━
Grace to you and peace from God our Father.
今日の静聴
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ □■□
士師記 8:23
<新改訳>
しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めませ
ん。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがた
を治められます。」
______________________________________________
ギデオンが学んだことは、これは主の戦いで、栄光は神に帰す
るものだということだ。ミデヤン人を恐れ酒ぶねで小麦を打って
いただけの男、兄弟の誰よりも劣ると自覚していた男が、イスラ
エルを救う士師としてわずか300人の手勢で敵を打ち倒したので
ある。
人は自分の小ささを通じて神の力の大きさを知る。人は恥辱を
通じて神の気高さを知る。人は人生の暗さを通じて神の栄光の明
るさを知る。逆境は神の贈り物なのである。
† † † † † † † † † † †
発行人:こるべ
毎朝、一日一章聖書を読むようにしています。
内容はあくまで私が感じたことで、みなさんと同じ感じ
方というわけではないですが、それをご承知の上、お読
み下さい。
う~ん。感動。
この聖書の言葉から、こんなに深い神様からの恵みを知ることが出来るなんて。
神様の大きさと、己の小ささを感じるときに
もう、委ねて歩むしかない自由を 受け取ることが出来、感謝です。
昨日は眠る前に雨が降っていたので、空は曇っていました。
今起きて 空を見たら 何にもない透き通った夜空でした。 半月なのに、月の光が地面を照らしています。
コパンの顔を見たら、月の光に照らされて 瞳が輝いていました。
最近は早朝に、ベランダに座ってコパンを膝の上に乗せて
空を見ながら祈るのが大好きです。
これまであったことも
私が昨日 してしまった罪も
あの空を見たら すべて良くなっていくと 思えて感謝です。
神様が「これを見たら また新し気持ちで歩き出せるでしょう?」と プレゼントしてくれたと思います。
地上を見ると、人が作ったものと
私、周囲何百メートルの景色しか見えなくて
その中にも十分な神様からの贈り物はあるけれど、
天高い場所を見上げるときに
確かに、この世界には神様がいて 静かに私達を見ていらっしゃると
もっと強く感じることが出来るので私は早朝の空が大好きです。
めぐみさん、
私は無事に必要書類も役所から取って来れて、不動産との契約も終えてきました。
それではないことでも、ちょっとパタパタ忙しくて、契約後も夜の11時過ぎまで資産の名義のことで家族会議をしたりと…疲れてしまって
昨日、始めてお腹に激痛を感じて とても不安でした。 神経使って思ったより身体もお腹の赤ちゃんもヘトヘトだったかもしれない。 用心せねば。
昨日、めぐみさんからのメールに 神様が用意したものは私たちが思っていたものよりも 良いものだってこと、今回の家購入の件で また確認できました。 これまでも、沢山感じてきたけれど ほんとにどんな時も、神様に望みを置くのは 最高に幸せな事なんだなーって感謝です。
しかも、神様のやりかたでは学ぶ事が多いし始めからすぐに手に入れさせるような事はしない。
私がやれることを全てさせてから、“自分に出来るのはこれまで。 あとは神様、お願いします”と心から 事の成り行きを神様に預けた時に 神様の備えたものが目の前に バーン!って差し出される感じ。 そして、それは期待していたものより 想像以上に良いものだよね。 だって、家族全員、この家以外にすむことが想像できないくらいだよ。
しかも、この家は去年売りに出されていて、その頃はまだ私たちが前の家を売っていない時期だったから他の人に売れちゃって 諦めるしかなかった物件なの。 先週、土地の話をちょうど白紙にもどして(めぐみさんに相談したよね?)
「もう、一年は家のことを考えない!もうちょっと貯金して、子供を生んでから」と決心して神様に祈って
そして金曜日に出た不動産の広告を何の期待もせずに見ていたら…この家が売りに出されていて “?????”って思って不動産屋さんに電話して聞いたら
買おうとしていた方が外国人で、銀行融資が降りなくて結局色んな銀行をあたって半年ねばったけど だめだったみたい。
それで、今回ふたたび売りに出したということ。 次の日に見に行って一目で気に入って、家族全員気に入って‥すぐに契約の運びになりました。
もしも、一番初めにこの物件を見ていたら 絶対に買わなかったと思う。 この半年、色んな土地と建物を見てきたから 必要な知恵と経験が詰まれて この家の価値がわかったんだと思うよ。。。神様がさせてくれることは、素晴らしいと思う。
この物件が何らかの理由で買えなくなったとしても、そこに神様の計画があるからと今は安心しています。
昨日、送った“今日の静聴”と同じ内容なんだけど、最近よく見る内容の御言葉を (きっと、私へのメッセージ)書きます。
For the sadness that is used by God brings a change of heart that leads to salvation - and there is no regret in that! But sadness that is merely human causes death.
Corinthians2 7:10
残りの時間も楽しみましょう♪
彼も長男だから 親戚が「早く継ぎなさい」とうるさく言われているとのこと。
その彼のお父さん(住職?)は、とても厳格な信仰の持ち主なのに
年に一度のクリスマスだけは 盛大に祝うらしい。
ツリーも飾って、サンタの格好で プレゼント交換も。
彼は そのギャップに戸惑いながら 毎年クリスマスを過ごしつつも
疑問に思い、何故に他宗教の行事を祝うのかと質問したら
「クリスマスの雰囲気が大好きだから」
との答えだったそうです。
面白い!!
どんな形でも、キリスト教から出たものが人を楽しくさせたり 喜ばせたりしていると
知ったときに とても嬉しく感じます。
こんな風に、とても寛容に他宗教の行事も喜んで祝う人を見ると
もっと幸せで嬉しく感じます。
世界中が、もっとお互いの文化や宗教に 理解と尊敬を示して
敵対や否定で終るのではなく、
神様から学んだ愛や、もらった幸せをお互いに分かち合える時
ほんとうに戦争はなくなるんだろうなと改めて思わされました。
あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、
目が悪ければ、身体も暗い。
だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。」
ルカによる福音書11章34節、35節
神様を信じてから変わったことは何だろうと、最近考えていた。
神様を信じなくてもいい生活があるのに、
わざわざ
教会に行ったり、聖書を読んだり、聖書に関係した本やテレビを見たいと思ったり、
家族や友人、知人とイエス様の話しや聖書の話などをしたいと思ったり、
キリスト教に関しての講演会があれば 飛んで行きたいと思ったり…
どうしてなんだろう。 と考えてみた。
どの時点でイエス様を 神様として確信したのだろう。と 思い返してみた。
う~ん。。。。
確か、5年前までは 全く信じていなかったはずだ。
しかも、宗教全般に 「怪しい」と思っていたのに。
う~ん。。。
はっきり覚えていることで、それまで経験したことのない体験をしたのは
ある日、朝の教会の礼拝で、賛美歌を歌って 涙がとまらなかった事。
その時まで、一度も、賛美歌で泣いたことがなければ
礼拝で泣いたことがなかった。
なのに、その時期は何週にも渡って礼拝中に涙を流していた。
自分でも分けが分からなかった。
ただ、ただ、賛美歌の詩と 歌っている人たちの背中を見て感動していた。
それまでの、疲れも重荷も 取れていくような感覚。
その頃までの私は、今に比べて
意地悪で 視野が狭く、人の批判ばかりしていて
「負けたくない」という意地の固まりでした。
手に入れたいことは、必ず成し遂げたいといつも 踏ん張っていた。
あの頃に夢見ていたことは ほとんど手に入れて
「結婚」に夢はもっていなくて
「子供」嫌いだったので
それから先の夢がまったくない状態でした。
夢がなくて、自己中な私は とても辛くなっていきました。
怒りがコントロールできなくて、
世の中が馬鹿らしく感じていました。
もう、最悪でした。
何を手に入れても、本当の希望と愛がなければ 人生は虚しいだけです。
あの礼拝の涙の瞬間、誰に教えられたわけでもないのに
「私はこれを求めていたんだ」
「もう大丈夫だ」 という思いが 心の中を木霊していました。
不思議な体験でした。
そんなこんなで、それから5年ほどたちます。
未熟者のキリスト者ではありますが
神様から離れたいと思う生活を送らずに、ここまでようやく辿り着きました。
冒頭の聖句は、聖書につながった人なら度々思わされる言葉だと思います。
私の解釈は単純です。
無意識でも聖書から離れた生活を送ってしまうと
前向きでなくなったり、良い考え方が出来なくなったり、
自分の思いで行動してしまうので 無理して疲れやすくなる。
だから日々を暗くしないように、聖書につながっていなさい。
人生を明るくするために、聖書につながっていなさい。
聖書を読むと 心に平安が来て、落ち着きを取り戻せます。
既に受け取っている恵みに気づかされるので、
感謝が来て、前向きになれます。
キリスト者になった日々は、それの繰り返しです。
私が一番変わったことは、心の中の「全知全能の神様」というより所です。
沢山励まされたし、世の中で勝つことや物を手に入れることが幸せではなくて
日々の生活の なんでもない全てが 感謝してもしきれないほどの
幸せが詰まった贈り物だと 教えられました。
無理せずに、自分らしく。
与えられた人生を 楽しんで感謝して生きることが
神様への恩がえし。
そのニュースを伝える、大変な映像が映し出されている。
被害者の無念さを思うと 何も言葉が浮かばない。
加害者の心の歴史を思うと 神様の言葉にすがるしか道が見当たらない。
この事件があって、人が 人と接することが怖くなる世の中にしてはいけない。
「ほんとうの自由」を考える 意味のある時間にしなければいけない。
聖書の言葉:
フィリピの信徒への手紙第二章3節から5節
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、
へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
めいめい自分のことだけでなく、
他人の事にも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。
それはキリストイエスにもみられるものです」
犯人の男性はひどい失望感と孤独感に陥っていたようだ。
心に強い痛みがあったはず。
それが何かは分からないけれど、
その男性がいた場所では、その男性の錯乱状態を止めるきっかけはなかったのだ。
日本の教育で、人に対する尊敬心や道徳、
弱者に対する配慮や 本当の愛、優しさを正しく伝える時間は多くあるのでしょうか?
家庭でも、そのことについて真剣に子供と考える時間を持つことが
とても大事で必要だと思います。
私が小学生の頃は「道徳」の時間があったり、
祖父母と暮らしていたので
小さな私の目の前で
祖父が飼っていたウサギや鶏、ヤギを殺して見せたりしました。 (夕ご飯用に)
命の重さはその頃学ぶことが出来たと思います。
それでも、母一人で私達を育てたので
「尊敬」や「愛」を学ぶ時間は家庭ではほとんどなかったと記憶しています。
みんな、良い本や良い人に出会って、
良い経験をしてから 少しずつそれらを学んでいくのでしょうが、
注意しないと、現代の情報が氾濫しただけの世の中では
自分の関心のあることばかりを拾い 見て
「尊敬」や「愛」を学ぶことはほとんど難しいでしょう。
上の聖句を、多くの人が(私も含めて)持つことが出来て、
どんな人にも優劣がないということを理解しなければ
真の優しさと思いやりを持たなければ、
良い世の中にするのは難しいと感じました。
彼は氷山の一角だと思うのです。
今日は仕事を午後お休みして、産科検診に行ってきました。
超音波検査で見た3週ぶりの お腹の子は 3センチになって
クルクル(言いすぎ) とよく動いていた。
よく見ると、手足もちゃんとあって顔らしきものも見える。
妊娠と気がつくまで、まったく自覚症状がなかったために
何種類かの市販の薬を 妊娠初期の大切な時期に結構な回数服用していたので
超音波検査で見える映像に 不振な点がないか 不安な気持ちもあって
「手はちゃんと2つかな? 足は正しい形かな?」なんて、
病院からもらったお腹の子の白黒の不鮮明な写真を 会計を待っている間、ひたすら凝視…
「ん? もしかして笑ってる?」
「頭、大きくない?」
「足の関節、多くない?」
二枚の写真を見て 広がる想像 膨らむ妄想…
初めての子供の親は みんなこんな感じで待合室で ニヤニヤしたり しかめっ面したりしてるんだろう。
もう一人、二人生む頃にも同じ感動があるのかな?
それにしても、最近はカンガルーになった気分。
今まで脂肪か何かしか、たまらなかった下っ腹に 小さな私の分身が住んでいるなんて何か変な気分。 しかも勝手に 順調に、すくすくと育っている様子。
カンガルーは子供がかなり小さいうちに生まれて、お腹の袋で大事に育てられるのを見た気がする。
人間もカンガルーみたいにいつでも袋を開けて見れるように出来ていたら、
人間ってせっかちだし、頭いいから 赤ちゃんに何かしそうで怖いから
神様が人間の妊娠は袋式にしなかったかも(?)
いやいや、そんなことは冗談ですが
アダムとエバの時代に、生みの苦しみを告げられたから
今の形になっている
現代では、出産も選べるようになって 必ずしも生むときに痛くて苦しいとは限らない。
ただ これだけは言えるとしたら、
女の人の身体の中に もしも一つの生命の可能性が宿ったとしたら
その先に何が起こっても 必ず痛みが伴う。
一つの人生が始まるのだ。
命は重いな~と、しみじみ。
道で通り過ぎる あの人も、あのオジサンもオバサンも、
歴史上の人物達も K-1選手も(いつの時点で強面で強くなったのか不思議だから)
あのニュースに出ている人も…
みんな こんな風に3センチだった。
お母さんのお腹の中で プカプカのんびり浮いて
まあるくて小さかったんだなあ。。。
今日、この一年で起こったことを振り返っていました。
去年の5月のゴールデンウィークあとに、母と妹で旅した四国と無教会の集会。 沢山の恵みを持ち帰り、タクシー運転手さんや四国の優しい人たちに 心をポカポカにされ、ルンルン気分で帰沖。
5月下旬には 待望の次女、ミニチュアピンシャーのトゥトゥとペットショップで遭遇 (その後一ヶ月はトゥトゥの躾で毎日、悪戦苦闘)
7月、母の美容室の改装工事。 内装工事と外壁のペンキ塗り…すべて母、妹、私でやった。 私なんか、外壁のペンキを塗っている時にアメリカ人の方に写真まで撮られる始末。。。はずかしかった。
8月、長時間労働と美容室の工事の後に 妹がダウン。 一ヶ月以上も謎の高熱が続き、通院。(妹に無断で、こんなこと書いてもいいのでしょうか?)
9月、家族会議の結果 「家を売って 美容室も一緒になった二世帯住宅を作ろう」との結論に達す。 この考えを伝える為に親戚や祖父の家、旦那様の家族にも話しに行く。 同意を得られるか、不安もあったので神様にひたすら祈る。(間違っていたら、道を閉ざしてくださいと)
10月、祖父と親戚の承諾を得たので(祈りつつ) 3週間ほどかけて家をリフォーム。 これも自分達ですべてやった(パチパチ)。 人間、死ぬ気になれば何でも出来るようだ。 リフォームしている間にも、奇跡のようなことが重なり 神様が家を売ることを後押ししてくれているようない気持ちになって 頑張れた
10月から翌年2月まで、旦那様の東京出張が決まる。 この期間に売却までのリフォームと業者探し、打ち合わせにじっくり時間がかけられた。
11月下旬、有名な不動産屋さんにお願いして、家を売り出す予定を立てる。 12月初旬(?) 広告が出る。
一週間後に売却される。。。。「は、早!!!」 (←かなり動揺。こんなに早く売れるとは予想せず)
12月中旬、家を無事に売却。 1月の中旬までに家から出るように言われ、小心者の私達は「ハイ」と返事してしまう。 次の住む家も決まっていないのに。。。。 ドサクサに紛れて、私はクリスマスに旦那様のいる東京へ旅行に行く。。
翌年1月の第2週に17年住んだ家を渡し、祈って1日で探したアパートに引っ越す。
2月、旦那様が出張から帰ってくる。 同時に職場の異動。 土地と中古の家探しも始まる。
パタパタと過ぎた月。 無教会の吉村さんから「5月の全国集会の賛美や証しに出てみませんか?」とお誘いを受ける
3月、土地探しとOpenHouseめぐりの日々。 その間、トゥトゥが家中のあらゆる物をカジったりとハプニングも続出。 土地はなかなか、見つからず。 めっきり沖縄の南側の土地と中古物件に詳しくなる。
4月、道に置かれたドーベルマンの銅像がトゥトゥに似ていたので車の中から「ドーベルマンは大きいな」と見ていたら 本物だった
5月、徳島全国集会に参加。 それまでと違い、緊張と恵みの連続で あまり生きている心地がしなかった。 友達も一緒に行ったので、彼女の笑いが緊張をかなりほぐしてくれた。。。 途中、体調が悪くなる。
5月下旬、おめでた発覚。 始めてエコーで見る、お腹の中の赤ちゃんの心臓の力強い動きに思わず
「お~」と言ってしまう。
現在。 10年ぶりに、ぐしけんパンの「ピーナツバターサンド」を食べたくなり完食。
次はどんな思いもよらないものを食べようと閃くのかが楽しみ。 相変わらず、つわりで気分は良くないけれど だんな様の協力で、かなりリラックスして生活できて仕事も行けているので感謝。。
2006年の私からは2007年~2008年は予想もしない1年でした。
神様が共にいるので、何もかも安心して進んでいけることが これまでと全く違うところです。。。
詩篇84編10節
「あなたの大庭にいる一日は、
よそにいる千日にもまさるものです。
わたしは悪の天幕にいるよりは、
むしろ、わが神の家の門守となることを願います」
私だけかもしれませんが、手作りの食事が「つわり撃退」には良いようです。
気分が悪いからと、家事を休んでお店で買ったお弁当や手軽な栄養バランス食品を食べると
もっと「つわり」の症状は悪化し への字口になります。
逆に、少しの生鮮野菜を買って 無理なく調理できる炒め物などを作って食べたら 普通の つわりのない状態に変身 仕事も家事も、どんどんこなせます
いつもより、体が敏感になっているのかもしれません。
口から入るものは、私の身体を作るだけではなくて子供の成長にも関係してくるから「気をつけないと」って反省しました。
考えて食べているわけではないのに、身体は口に物を含んだ途端に それが良いものか悪いものか分かるんだ…って知って感動しました。
昔、マクロビオテックという食事法を 学んだのですが
自然のものを手をかけて味わい、
その土地から採れない不自然なものは 口にしないというような食事法でした。
とても理に叶っていて 良い食事法で
マクロビオテックの目指すところは 「世界平和」でした。
どういう意味かといいますと、
食事を良くする事で、心身を美しくし、精神の落ち着きを取り戻す。
現代の食事では、それを長い間取り続けると
気持ちを一瞬で高揚させるものが多いため、
自律神経の乱れや
脂肪と精製された砂糖類によって多くの病気を引き起こすことが分かっています。
私はチョコレートとメロンパンを食べ過ぎて過度のPMSになり、病院通いをしても良くならず
色々調べた結果、マクロビオテックにたどり着いたのでした。
徹底してこの食事に変えたら、すぐに体が変わるのが分かりました。
病気もすぐによくなりました。
薬を使うわけでも、特殊な言葉で暗示をかけるわけでもなく、
毎日の食事を日本人らしい、本来の食事に戻しただけで
チョコもメロンパンも 食べたいという感覚すら消えてしまいました。
あれには びっくりでした!
身体は知っているんです。
神様が創ったものだから。 誰に教えられるともなく、正しいものを分かっているんです。
聖書も同じです。
聖書の言葉は人間が言う 「哲学の分野」に入るものではありません。
理屈うんぬん…というものでもありません。
ある日突然、心が分かるのです。
私が判ろうと思って聖書を読んでも、絶対に分かりませんでした。
でも、そこに書かれている美しい言葉や 誰かの通った歴史に 本物があることを、心が分かっていたのだと今なら分かります。
神様の創ったものは 本当に見事です。
昔会った誰かに言われた言葉
「もしも誰かの態度で あなたが傷つくことがあっても
絶対に相手に対して悪い感情を抱かないほうがいい。
その人の その時の状況が その時だけ良くなかったから
あなたに対して悪い態度をとってしまったかもしれないから」
その言葉を思い出して いちいち行動することは出来なくて、
いまだに人の態度に「カチン」と来てしまう、未熟者である。
なぜこんなことを 考えているのかというと、
ここ最近のツワリの苦しさで
四六時中、眉がへの字になって口もへの字になっている私。
気持ちが悪いから、仕事中でもこんな不機嫌そうな顔をしている。
今の私から 私を知り始めた人はきっと 「いつも不機嫌な怖い人」と思っているはず。
本当はこんなに優しい心の持ち主なのに~い (????)
これからは、第一印象で人を決めるのをやめようっと!!!
(そんな私は、だいたい一目ぼれに走る人でありました)
反省会おわり
…そんな感じで過ごしていると、思いっきり笑ったり 踊ったり 跳ねたりしたくなる。
さきほどは大好きなイギリスのラジオ局を聞きながら、流れてきた曲にのって
うちの二匹のワンコと踊っていた。
コパカバ~ナ
リズムにのって、トゥトゥの前足をつかまえて フリフリ踊っていたら
トゥトゥの体から 「ポキッ」っと
なんだか一瞬、トゥトゥと目があいました。
あ~びっくりした。
その後、たまたま開いた聖書に
「あの犬どもを警戒しなさい」 ピリピ人第三章三節
チラッ (コパンとトゥトゥが見ている)
ドキッ (私、いそいで目をそらす)
びっくりした。
分かっています。「あの犬ども」は、本当の犬の意味ではないことを。
面白いタイミングで見てしまった この言葉。。。
さっきの「ポキッ」は、トゥトゥの骨の変だったところが治った音だったらいいな~。。
こほん、こほん。
先週日曜の徳島から、体調を崩し 中盤(去った水曜日)に持ち直したのですが
職場の誕生日会で行ったアメリカンレストランで、顔ほど大きなハンバーガーをほおばり、
ポテトの残骸を残して ほぼ、たいらげたのですが
その翌日から、また 体調を悪くし
「ハンバーガーに何か入っていたのか?」 (←あんなに食べといて)
食中毒と思って この日曜まで 仕事も早退を繰り返し寝込んでいました。
ご飯ものどを通らず、気分が悪い。 ひどい頭痛。
徳島での症状と同じだ。
しかし
スパゲティーとバニラアイスは美味しい
もの凄くたべて、食べたら、寝込む…
の繰り返し。
…もしかして???
病院に行ったら、なんと、お腹に赤ちゃんが。
「え~!!!!」
とっても不思議!
心臓が動いている映像。
徳島旅行も一緒に行ったのか??
証しのときも、一緒にあの壇上にいたのだ。
とても不思議すぎて、でも 本当に嬉しかった。
世のお母さんはみんな、こんな体験をしてきたのだ。
すごい!
コパンとトゥトゥの母さんも、凄い
3泊4日の四国&神戸旅行を終え、昨日の夜、沖縄に着きました。
今日からまた いつも通りの生活です。
徳島での無教会全国集会では 意味深い時を過ごし、後半 体調が悪くなって乗り切れないと思ったけれど 神様は私の身体を支えてくださいました。 無事に最後のプログラムまで終えました。
無教会の集会で一番いいことは、牧師などがいないので 教会に比べてキリスト者の証しの時や講話が圧倒的に多いので 私の生活で知りえない人々の生活を見ることができ、その証しを通して神様の愛を見ることができるところです。 そして、「今もあの人が、あの町で頑張っている」と 世代を超えて祈りのときや交流会で交わった方々を身近に知ることが出来るので 後の生活がとても心強いものになります。
今回、参加して 更に 己の小ささを感じました。
「新しいぶどう酒は、新しい皮袋にいれよ」 という御言葉が 最近とても示されていて今回の会でも同じようなことが示されました。 これまで、自信をもって「悪いけど、いちおう新しい袋、使ってま~す♪」って思い込んでいた私は、実は古い皮袋のままだったと思わされました。
思い上がっていたこと、恥ずかしいです。
とどめは、吉村さんの講話での
「心を暗いニュースなどのような、先を見えなくさせるような汚いものに目を向けるのではなく
神様が創った身近にある、素晴らしい自然や生き物の美しさに目を留めよう。
暗闇の光になろう」
という部分が心を打ちました。
いつの間にか、マイナス面に目が行っている私。
人の違いをやっぱり受け入れていない私。
いつまでも古い皮袋を使って聖書の言葉という「最上のぶどう酒」を入れていたのだ。
古い皮袋は耐えられるはずがない。
切れ目からポタポタ、御言葉は流れ落ちていたのだ。
聖書の言葉。
「善人は良い心の蔵から良いものを取り出し、悪人は悪い蔵から悪いものを取り出す。
心からあふれ出ることを、口が語るものである。
私を主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」
ルカによる福音書6章45節、46節。
この御言葉、グサリときました。
今は一人で反省中です。。。。
まあ、ナカナカ簡単には変われないけれど 神様に任せて 良い方向へ変えてもらいます。
焦らない、焦らない。 (立ち直り、早い??)
この旅の間、家族の安全と無事を守ってくださった
神様の大きな愛に感謝。
宝くじについては、クリスチャンの多い環境にいるので その多くのクリスチャン達は「賭け事で心を汚しては、御名を汚してはいけない」と言います。
私はクリスチャンに関係なく、宝くじが苦手で クリスチャンではなかった頃も買ったことは1、2度でした。 会社の付き合いで買ったときには、「当たったらどうしよう」と1週間前から眠れなくなり 宝くじを見えなくしようと隠してみては 気になって探してみたり 忙しくなるのです。
こんな状態で過ごしてしまうので、宝くじを買うのが怖くなりました。
その後何度か 買ったかもしれませんが 今では関心がほとんどなくなってきました。
(旦那様の結果に、ちょい期待しているズルイ私もいますが)
宝くじだけではなく、状況や人に過度に期待してしまう癖があります。
これまでも、特に若い頃に 期待しすぎて信じすぎて 思ったようにならなかったり 裏切られてしまった時に
勝手に深~く傷ついて 落ち込んでしまい穴から這い上がれなくなる事が多々ありました。
それで、そんな経験を多くつんだ私は何に対しても始めから期待することをやめた、不信感を持った 曲がった心の持ち主にいつの間にかなっていました。
でも、聖書のイザヤ書第二章22節の
「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」
のような言葉に出会った時に とても心に平安が来て「世の中けっこう大丈夫」だと思えるのです。
私も鼻で息をしているだけの生き物。
心は始めから不完全だから、神様の教えがあってやっと強くなれて良い選択が出来るような状態。 自分の利益ばかりを求めてしまう 弱い生き物。
他に期待を求めることはやめよう。 神様意外は他も同じだ。
それでも、みんな 一生懸命生きている。
人生をよくしたいと 頑張っている。 ただ、それだけ。
期待を裏切ってやろうなんて思う人、いないはず。
期待とか依存心は神様に対してだけ、持つようにしなければ。
宝くじ、ドキドキせずに買える様になったら きっと前より神様への信仰が強くなった証拠なのかも。
あ?
その前に必要は十分与えられているから、買う必要ないのかもね。
昨日はだんな様の壊れた車を 日産まで届けるため再び名護まで行くことになり、土曜日より早めに家を出ました。 なのに混雑の状況は土曜日よりも悪化していて 一車線しかない名護までの道を時速10キロも出さない状態で チンタラ チンタラと3時間近く車の中で過ごしたのでありました。
その上、だんな様とは別々に車に乗らないといけなかったので 3時間無言でありました。 私の携帯の電池が1本線になり 電池切れ寸前だったので、(もちろん運転中に電話はいけないが) 外の風景を撮ることも出来ず、何かあった時のために電話も使えず 地球温暖化防止のためにクーラーはなるべくつけなかったので、ものすごく暑くて汗がタラタラ…
無教会の徳島集会の賛美歌の練習ができると 張り切ってCD聞きつつ「主イエスは~」とか始めの一時間はノリノリで歌っていたのですが、…気がつけば、2時間過ぎた頃には大好きなロックのレイジ、インキュバスやケミカルをガンガンに鳴らして頭をフリフリ聴いている私がいたのでした。
ちょっと、制御不能に陥りました。 はい。
混雑や並ぶことが人一倍嫌いな私。 今まで避けてきた分が、つもりに積もって、この二日に集中していらっしゃった感じでした。
一日に何時間も、車内にいるタクシー運転手さん達をとても偉いと思いました。 たった二日だけで、疲れが背中と腰にきています。 あいたたたた。
右半身だけ運転焼けしてしまった旦那様と、汗だらだらの私はついに日産に到着~。
店内で涼んで、車を渡したあと、買った車をじっくり見たかったのですが背後で店員が見送りに外まで出てきたために見れずにそのまま私の車に乗って どこにも寄らずに飛ぶように沖縄市に戻ったのでした。
「もう一生ゴールデンウィークに名護には来ない」と二人で誓いました。
実際、今日は仕事でしたが週末の予定が多かったので念のために年休をとっていました。
正解でした
朝、久々に犬たち抜きで ジョギングしてこようと旦那様が言っていたので 張り切って準備して、外に出たとたんに雨。
昼、曇っているけれど雨は降らなさそうだったので 再びジョギングしてこようと準備して、外に出たら またもや雨。
天気予報を調べて、夕方には晴れるようだったので 夕方になってまた準備をし、「一緒にいける」と思って騒いだコパンたちを置いて駐車場まで出たら また小雨が降り始めた。
「今日はジョギングしたら駄目な日なんだね。」と二人で、諦めて部屋にもどって5分ほどして旦那様が「雨がやんでるよ」
「3度目の正直で、行ってみよう!」と玄関に行ったら あとを追って
「一緒に行きたいの」…キラキラと愛犬たちの まなざし。
連れて行くことになり、2人と2匹で運動公園を走ってきた。
心臓の悪いコパンが気になったけれど、本人は久々の広い公園にテンション上がりまくり。
嬉しそうに走り回って、誰よりも元気だった!!!
笑顔で走るコパン。 後を追って 楽しそうなトゥトゥ。
連れて行ってよかった~。。。
雨が降って、良かった~。。。朝から天気だったら、こんな幸せそうな二匹が見れないところだったよ。
連休のよい締めくくりでありました 神様ありがとう。
沖縄も暑くなってきました。
ゴールデンウィークで観光客が街に溢れかえっています。 道路も混んでいて、昨日 用事で名護(家から車で1時間半の場所)に行かなければいけなくて、渋滞に巻き込まれてしまいました。
運転者の旦那さまは、予想していなかった渋滞に目がうつろになっていました。 途中で立ち寄った 「なかむらソバ」屋さんでは店内も外もいっぱいでした。 食べ終わった人たちの「海をバックに記念撮影会」を 私と旦那さまはソバを堪能しながら無言で見ていました。 「みんな楽しそう…」
天気が良くてよかったです。 せっかく来た沖縄で、雨だったらね…
ビーチでは大勢の家族連れや若い人たちが テント張って 食べたり、泳いだり。
道では サイクリングの親子。 コンビニやレストランでは外国人の家族連れ。
みんな太陽の下で 薄着になって 楽しそう
私もかつては(そう遠くない) あんなふうに キャッキャしてたっけ?
みんな、海で昼から何してるんだろう。
テントはって、バーベキューして…泳いだり ゲームしたり??
よく見る外国のリゾート地の映像では、海に半裸でねっころがって日焼けしたりしてる。
その光景を見るたびに、がさがさー(落ち着きのない)な私は 「海で眠るのって、楽しいの?」って不思議でしょうがない。
私だったら、眠ってる暇があったら 歩き回って 綺麗なものや場所を見たり
暑くない涼しい場所で、おしゃべりしたりとにかく動きたい。
これは個人的な意見なので、人それぞれなので、聞き流して欲しいのですが。
日にあたって、「ノンビリと 何してるんだロー?」とか思ってしまいます。
海があまり好きではないので、「めんどくさそう」というイメージが先走ります。
小さい頃から海の近くにいると、こんな贅沢とも言える考えが頭に生まれてしまいました。
山の小道の散策などで野花を見てマイナスイオンに癒されたり、木陰でハンモックに揺られながら読書…が私の中でのリゾートでの一番の過ごし方なのです。
と、2時間以上のドライブの間に こんなことを考えつつ過ごしていました。
用事というのは、旦那様の探している車が名護のNissanにあったので はるばる見に行ったのでした。
渋滞に巻き込まれて、大変な目にあいましたが お目当ての車は文句なく可愛くて旦那さまはその車を一目で気に入ってしまいました。
そして、遠いところから来てくれた お客様に感動した店長さんが車の値段を大きく値引きしてくださいました。 渋滞に巻き込まれたかいがありました!! やったー!!
また帰り道、チョイ渋滞にあいながら ルンルン気分で家に到着。
ベランダに敷いた、毛布の上に うちの犬が二匹で日光浴している。 平和そうに、幸せそうに。
太陽の光が好きらしく、休日は朝から晩まで 二匹でベランダにいる。
それを見て、ドライブで見たビーチにいる観光客たちの姿を思い出した。
何するでもなく、ただ、太陽に照らされて 空の下で過ごすのが楽しいのだなあ。 嬉しいのだなあ。
リゾート地では、「あれをする。これをする」と考えて行動するのではなく
何も考えないで 日常を忘れて自然に身を任すことが 正しい過ごし方なのかも。
うちの二匹らに、リゾート地での過ごし方をおしえてもらいました
私達を見つけたおばーも「あいあいあい」と驚いた様子で何かボソボソつぶやきながら 震えた泣きそうな声で嬉しそうに話しかけてきた。 (でも、あとでそれは、私の母と思った間違いだったと知りましたが) 久々に会えて、嬉しいのと同時に「忙しい」と言って会いに行かなかったことを心から後悔しました。
前回に比べて、なんとなく、介護施設の雰囲気が違って見えて
(夜だからでしょうか)
「働いている人たちは偉いなあ。」としみじみ思ったのでした。
「いつかえれるのかな?」と何度も私達に問いかける おばー。
私達は何も良いことを言えなくて、だまっていました。
施設で思うように自由に生活できていないんだなと おばーのふとした行動で見ることが出来た。 周囲の状況に対して、とても気を使っているように思えました。 働いている人たちは みんな忙しそうにしていて それぞれが精一杯、出来ることをしている。
正直、従業員の人数は足りているのか心配になるほどでした。
よくしてくれる従業員達に、言えずに我慢していることも沢山あるんだろうなと あって少しの時間で感じることが出来ました。
私達が高校生になるまで、大切に育ててくれた 第二の母親のようなオバー。。。
おジーちゃんや、みんなが過ごしている家にはもう1年以上帰っていない。
とても、とても 寂しそうだった。 優先順位の中に、おばーちゃんを入れていなかった事を反省しました
あの一緒に住んでいた頃の、沖縄の瓦屋敷の仏壇前の食卓に座って、みんなで囲んで食べた おばーちゃんの手料理や 30分ごとに鳴る振り子時計や、ドリフターズの番組を見ながら横になる おじーちゃんの様子や 庭に集まる雀たち…
あの風景には もう二度と戻れないのだと今更ながら思い涙。
世の中には沢山のことがあるけれど、老人ホームに行き 沢山の人たちの老後を目の当たりにして
私たちの現実は一瞬の夢なんだと分かった。
若い世代の人たちや、現役で働いている人たちの今は戻れない過去に。
どんなことをしてきても、「老い」と「死」は誰にも必ず平等にくるもの。
目先のことに捕らわれずに、「老い」と「死」とを意識して、
今という時を、大切に喜んで生きなきゃ…
先週、眠れなくて夜中ベランダから月を見たときに、確か満月で天気もよく 静かな風が吹いていて もうそれだけで感謝でした。 同じ月を見て、同じ時に苦しんでいる人がいるかもしれない。 次の瞬間がない人もいるかもしれない。
でも、私はこの場所を与えられて 健康が与えられて 神様の愛を感じることが出来て…日々の生活でもちろん、私なりの悩みがあって それを考えるのに時間を費やしてしまう でも、そんなことは「悩み」に入らないのだ と、神様が創ったものを見上げるたびに思わされてしまう。
NHKの番組、「きらっと生きる」で統合失調症の患者が40年ぶりに社会復帰するのを見た。 彼は淡々と自分の事やこれまでの病院生活のことを話していた。 病院ではない、普通の生活がとても楽しいと言う。 そのとき、ナレーターの説明で彼が生まれて5年後に両親が亡くなったと知る。
ハッとした。 彼が退院できて、普通の生活に戻れても一緒に暮らす家族はいないのだ。 それを喜んでくれる人はいないのだ。 天涯孤独。 この番組を見ている限り人に関わるのは寮の人たちとケースワーカーの女性のみだった。
私のように当たり前に、何でも相談しあえる家族がいるということが 当たり前でない人たちも沢山いるのですね。 「当たり前」だと感謝も忘れてしまうような日常が、恵みであることを教えられました。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」
試練の時こそ思い出したい。次も解決して下さると。 (定期購読している、「今日の静聴」より…)
試練と思うようなことも、解決への出口が見えないときも、孤独を感じるときも 状況にうろたえるのではなく、これまで神様が私にしてくださった良いことを思い出して感謝し、喜ぼう。 そして神様が共に次も乗り越えてくださることを、期待し 祈りつつ前進あるのみ!
つぶらな瞳で愛らしいコパン。 ミニピンの美という美を兼ね備えた容姿。 私の旦那さまは、コパンに見つめられると弱く、「美味しいの(犬用おつまみ)」を冷蔵庫から取り出して そっちゅう与えてしまう。 だから最近めっきり、おでぶちゃん。 コパンも私達が彼女のまなざしに弱いと知っていて、何かして欲しいときは目をウルウルさせて見つめてくる。
黒いミニピン、トゥトゥちゃんはモデル体型で小顔。外国人風の美人。いつも軽やかにピョンピョン跳ね回る。 だけど、その動きに旦那様はウンザリするらしい。 しかも、現金なトゥトゥは旦那様の言うことは普段、全く聞かないのに、彼が美味しいものを食べている時にだけ親しげにすり寄ってくる。 まるで彼の忠犬のように隣に座って身体を寄せている。 (普段は呼んでも来ないのにさ~)
トゥトゥは、過去に旦那様の〇十万するコンポを食べて使用不能にしてしまった。 Wiiも壊した。 壁もかじる。 食いしん坊だ。 トゥトゥのことを旦那さまは結構、嫌っている。(でも、我慢している)
コパンはいつでも、おりこうさん。 トゥトゥに噛まれても、踏まれても 仕返しなんかせずに そのままにさせて、オメメきらきらさせている。 私達はそれを見て、「どこまで天使なの???」と、ますますコパンの愛情深さと優しさに感動。
しか~し!!!
そんなコパンにも怖い一面が。
パンが大好きなコパン。 私がパンを食べていると、「食べたい」と側に立って訴えてくる。 そんな時、トゥトゥがいつもの能天気な調子で「何、何~」って走り寄ってきたら…
がぶり!!!
「キャン☆」 ←トゥトゥが噛まれた
鬼のような形相で トゥトゥをかじるコパン。 「パンは渡さないぞ」 といった感じです。
この一瞬、「あなた、どこの犬?」みたいな空気に。
トゥトゥは「降参」ポーズ。
私も あまりの怖さに 一つまみあげました。
コパンのパンに対しての執念は、それ以外の優しい無垢な部分とバランスよく出来ている。
「コパン」って、名前にパンがついているからパン好きなのかしら?
それ以来、気のせいだか 私とトゥトゥとの距離が近くなった気がします。
トゥトゥも、きっと見えないところで色々苦労しているんだろうね~。。。なーんて。
でも、コパンみたいに 一つ、誰にも譲れない自分だけの大切なものがあったら
それ以外のところでは どんなときも優しくなれるのかもしれない。 大らかに過ごせるかも。
だけど、譲れないものの部分が目の前にあったら別。 手に入れるまで、熱心さと情熱が大切。 時にぶつかるだろう…でも神様はちゃんと見ているし、努力してたら想像以上のものが手に入るから。 私がコパンの情熱に押されてパンを与えた時のように。
私も「神様の喜ぶこと」を「誰にも譲れない大切なもの」と出来たら、もっと優しく、穏やかになれるのかもしれないな~。 まだまだ、修行が足りんとです
土曜日に5件ほど見て、「きゃ~」となった土地を旦那様に言ったら 「高すぎる」と即却下。 かなりノリノリだった私は撃沈してしまい、這い上がれなくなってしまいました。
土日、試験で福岡に行っていた お疲れモードの旦那様に こんな土地の話なんてした思いやりのない私。
旦那さまは疲れているにも関わらず、丁寧に私の主張を聞いてくれました。 大人だ!
それに引き換え、私は半泣きで「絶対に、南上原に住みたい~!!!」と駄々をこねた…子供だ!
只今、旦那さまは財政難に陥っております。 そんな折に車も壊れてしまい、購入せざるおえなくなりました。 車の為に、那覇に高い駐車場も借りていてETCも設置。なのに、バス通勤をしています。 テストの旅費も家賃も お付き合いで買ったゴルフクラブも…彼の生活を圧迫しています。
節約で、毎日おにぎり一個と水筒を家から持って仕事に行っています。 今の彼はガリガリです。
そんな彼に「あの土地買いたい」と言ってしまった奥さんも考え物です。
今、冷静になれば 苛立つことのない状況ですが、「却下」されたときは泣きそうでした。 土曜日の一日を使って、あんなに沖縄一周(大げさ)したのに 簡単に「却下?」なんて信じられないとか思ってしまいました。
神様ごめんなさい。
視野が狭く、神様の喜ぶ選択をしていない私。 反省。
それでも、焦りと苛立ちと不安とで(--)無言。となっていました。 そんな私を旦那さまは、「お土産食べる?」とか優しくこえ掛けしてくれました。。。旦那様が本当に優しい人でよかったです。
旦那様の急な財政難。 こんな状況になったのも、先々に必要だからだと思います。
無理して家を建てて、何かあった場合 お金に苦しまないようにシミュレーションをしている気がします。 今はまだ考え直すことが出来ます。 この経験をして、神様から知恵を与えられて少しは賢くなれたらいいです。
将来、子供が出来ても 誰かが病気になって収入が入らなくなっても 大丈夫なように住まいは考えなければ。 今、ちょうど 体験できている気がします。
何よりも、私が「これが一番、最善だ」と思うことを超えている神様の計画があることを期待して 冷静に待つことが大切です。 何もかもを学びにして歩みたいです。
主よ。
今、膝の上で寝ているコパンを最後まで育てる義務を全うできるようにさせてください。
昨日、友達の出産祝いと新築祝いに行きました。 この友達は同じビルの隣の事務所にいて、去年の夏前まで話したこともなく、廊下で挨拶を交わすていどでした。 「とても綺麗な人だな~」とだけ思っていました。
友達になったきっかけは、彼女が沢山の人に送ったメールに聖書の言葉があったことで 私が「クリスチャンですか?」と聞いたことでした。 それから彼女の父親が牧師であること、彼女自身も熱心なクリスチャンであることなどを知りました。 友達になったときには既に、お腹に赤ちゃんがいました。 旦那様との二人目の子供がお腹に宿っていました。 結婚したばかりで幸せそうでした。
でも、実際に話を聞いたら この幸せまでに 沢山の出来事があり、「どうしよう」と泣いて泣いて、目の前が真っ暗になった頃も経験したそうです。 その頃は、熱心に信仰生活を送っていたわけではなく 神様から少し離れていたそうです。 沢山のつらい思いをして、神様に色んなところで助けられてから 神様の愛が本当に分かり、心から戻ることが出来たといっていました。
今の旦那様と出会えたのも、そんな辛い時期の中でした。 彼女は再婚なので、8歳になる女の子もいました。 一人で育てるのに不安だったのに、神様が仕事をくれて、旦那様と出会わせてくださり 結婚まですることが出来ました。 何かあるたびに二人で祈り、神様が助けてくれて また感謝の祈りをする…そんな日々を送ってきたそうです。 旦那様が外国人なので、仕事を探すことにも不安がありましたが 毎日祈って祈って、公務員の仕事を手に入れることが出来ました。 「これは神様がしか、成しえない」と驚き、喜んだそうです。
そして、夫婦は家を建てました。
色んな土地を見て、沢山喧嘩もして、気に入った土地があったけれど銀行が許可してくれなくて とても恥ずかしく辛い思いもしたそうです。 でも、祈って祈って、与えられた土地。 始めは駄目と言っていた銀行が、珍しく許可してくれたそうです。
完成した家は、旦那様の100%の思いがつまった 美しい家になりました。 家からの景色も最高で、これまで「駄目」といわれてショックで悲しんだこともあったけれど、それまで見た土地や中古物件でなくてよかったと、神様の用意した土地は「ここだったんだ!」と感謝したそうです。
私の二世帯計画は、彼女の励ましなくては進んでいないことでした。
わたしが「もう駄目だ」と思っても、いつも彼女からヒョッコリとメールがきて「神様の業に期待してよ!絶対大丈夫だから。」と励ますのです。 びっくりでしたが、その言葉で今日までくることが出来ました。
私にとって、彼女と友達になったタイミングはとても良かったです。 家を建てようなんて夢にも思わない時期から、神様の計画は備えは いつでもあるものです。
彼女の三女の名前は美海愛(ミカエラ)ちゃんです。
一家の大黒柱である旦那様の要望「100坪ほしいな」は、なかなか実現せず。 100坪で手の届く価格の土地はあるにはあるが、「かなり遠い」か「かなり密林」か「かなり墓地に近い」か…のいずれか。 良い立地条件の場所がたまに出て、100坪には満たないが、まあまあ大きな規模の土地を不動産屋さんに調査依頼したら たいていが曰く付きであります。
ある場所なんか、その土地に立って10分しないうちに吐き気がした。 勘が「ピン」と来て、見た目には申し分ない土地ではあったが見送った。 その後、ナカナカ良い土地が見つからないので 吐き気がした土地を見直すことにした。
いつもお世話になっている不動産にお願いして、その土地に私道(他人にも使えるように提供する土地)が入っていないか調査依頼したら 返事が「その土地、昔、お墓ですよ」 …昔のゼンリン地図のコピーが送られてきた。 墓マーク ばっちり! うそ~っ!
お墓が怖いとか(いや、実は少し怖い) 幽霊がこわいとか そんなことではなくて、 純粋に…不安要素の入っていない土地が好きな、だけっす。 ただ、土地めぐりしていて 大変ではあるし、こんなことがあると「もうどこにも住めない」と凹んでしまうけれど…何もかも終った後に、「実は、ここは昔…」とか言われたくないのであります。 こうして、神様にキチンと「よくない場所」を教えてもらえるので とても安心して土地探ししています。
みなさん、大変な思いして家を建てるんだなーって 今更ながら勉強になっています。 お金に不自由なく、何でも簡単に手に入れられたら 土地なんてチョチョイと買って、家なんて有名デザイナーにパパッと作ってもらえるはず。 だけど、そんなことになったら 私の性格なら ありがたさも忘れて その家に飽きちゃって ブツブツ文句も言うだろう。 私の性格を知っている神様は、私に必要な時間を与えて 簡単には家を作れないようにしている。 (実際、そんなお金も手元にはありませんが)
この時間を乗り越えたあとに住む家は、きっと、大満足で大切に大切に住むでしょう。。。。
神様、よろしくお願いします。
土地を探している間に、旦那様の当初の「100坪運動」も次第に、「60坪以上運動」に変化し、今では「50坪でもなんとかなるさ運動」になっております。
「アパートでもいいのさ運動」に変化する前に、良い土地と良い知恵が見つかりますように!
糸数さんはむかし、学校の先生をしていた方。
3年前の無教会の徳島集会で沖縄出身のちょげはるさんとお友達になった。
ランチを食べながら、不思議な感覚。
3年前にチョゲハルさんが知り合っていなければ、糸数さんとこうしてランチはしていない。
年齢差20歳以上の お友達?だ。
わたしがキリスト教徒でなければ、絶対に知り合えなかった糸数さん。
糸数さんはしきりに、「偶然ってないのよね~。 面白いわね~」と言っていた。
ホンとにそうだ。
よく笑うし、話は尽きない。 無教会なのに やけに教会に詳しくて情報屋。
本も沢山読んでいて、チョゲハルさんは何冊か借りているらしい。
あっという間の3時間だった。
帰りに会計まで誰よりも早くササッと走って行き、「あとでまとめてね!」と糸数さんが払ってしまった。
店を出てすぐにチョゲハルさんがお金を渡そうとしたら
「いいのよ~!!!!!」と 大声で
チョゲハルさんのシャツの右肩をわしずかみにして大きく振り、チョゲハルさんごと財布に入れそうな勢いで叫んだ
人に全く気を使わせない、話し上手で優しくて面白い糸数さん。
糸数さんのような人に出会うと、キリスト教信者でよかったと思ってしまふ
この一週間も色々ありながらも、いたるところで神様に守られていることを感じながら、生かされて感謝でした。
聖書を心から理解できるようになったのは、本当に最近の事です。 4年前だと思います。 それからは、奇跡というのは 目の前で不思議な現象が起こるということではなく、命が与えられて「生きている」ことだと判るようになりました。
ただ誰に望まれるわけでもなく咲いている 春の小さな花も 先週の木曜日の 重い私の心を ホンワリと和ませてくれました。 職場の駐車場の芝生には、今、タンポポが沢山咲いています。 タンポポを見て、気持ちが和らぐようなことこそ「奇跡」だと思います。 意味のないように そこにただ咲いている 私と会話も成り立たないタンポポが、生を与えられてその場所に咲いているだけで私を励ますことが出来ます。
ただ生きていて、なんとなく過ごしていると 何か凄いことをしている人に気後れしたり、時代に追いついて華やかにしているほうが輝いて見えたりするのですが そういうことばかりに気をとられていると、自分の価値をその中に当てはめられなくて落ち込んでしまうことがあります。
でも、神様は 私が喜んで生きることだけを望んでいるんです。 何が正しいか、美しいことかを自分の心で判るようにと 私という命をこの世に存在させました。 凄いことをして、誰よりも正しく、成功し、この世の富と名誉を手中に入れて欲しいと願って この世に私を作られたのではないと思います。 それらは いつか無くなるものばかりですから。
私でいていいのだ、無理するのではなく、 私らしく生きていることで 誰かの役に立っているかもしれない。 道は神様が 切り開いてくれる。 必要な努力と知恵は教えてくださる。
最近は教会の奉仕をすることが 楽しくてしょうがありません。 私を必要としてくれる場所があって、無理なく自分に出来ることだからです。 喜んで楽しく生きるのが、神様への自分に出来る恩返し。
詩篇34編4節
「わたしが主を求めたとき、主はわたしに答え、
すべての恐れから私を助け出された」
そのたびに、皆で励ましあいます。 うちの事務所は紙が落ちただけでも騒音に聞こえるほどの静けさなので、私に何か起これば、そこにいる全員が知ってしまうのです。
皆で色々話しているうちに、スッキリしちゃって 「頑張ろう!」なんて明るく気持ちが切り替えられます。 時間がたって、気にした張本人の上司が 私の周りをうろちょろし始めて、悪かったと思ったのか 冗談をいったりして機嫌をとろうと必死になるので、このくらいから 私の怒り度も20%くらいに下がってくるのです。
その立場でしか分からない苦悩がきっとあるのでしょう。 壊れてしまう時、人に対する発言の内容もおかしくなるほどのプレッシャーの中に彼はいるのでしょう。 彼から皮肉を言われて、私もおかしくなってしまうように。
まだ、「悪かった。許してね」というような態度を示してくれることで、怒りを引きずらずにいられるのがよかったと思います。 そうやって、部下にも配慮がある上司なのは良かったと思います。
どんなに聖書を学んでも、とっさに起こることに 柔軟に対応できないときがあります。 反省しつつ、人に励まされ、御言葉に励まされ、解決を待つ間に心が癒される時、成長できたかな?と思えます。
嫌なことからは、学ぶことが多い。 その瞬間は落ち込むし、怒るし、考えをまとめるって頭がゴチャゴチャになってフラフラするし…大変だけど そんなことから気づかなかった事を知るのが多い。 人と触れ合って、共存して学びあって、人と関わることに 生きる意味があるのだなとしみじみ思う今日この頃。
完璧な人なんかいない。 だからみんな生きている~♪
忘れやすいです。
職場で情報収集し、どうやらそれほど怖くないらしいことが判明。 アメリカ国籍の女子たちによると出演者たちの「肉体美」が見所だということ。 アメリカ人好みの肉体美も気になるところですが、ツタヤもクーポンで旧作のレンタルが半額だったので、意を決して借りてみることにしました。
いや~。 まいりました。 感動、感動、感動。 見てよかった! 確かに怖かったし、映画の約70%は戦いのシーンのため 人をバッサバッサ殺していくのでかなり残酷な映画ではあると思います。 私も始めの10分ほどは、あまりの残忍さに眉をひそめながらみていました。 でも、映像の美しさはぴか一でした。 見ているうちに、王の人柄に惹かれて私も300人の兵士の一人になりたいような気分になりました。 全体的には黒、茶色、灰色の画面に彼らの鮮やかな赤い色のマントが(戦いで邪魔じゃないのかなんて思いつつ)とてもバランスよく美しかったです。 肉体美?は「おーこれが筋肉美?」といった感じでした。
ただの人殺しの映画なら、感動もないのですが この映画の根底に流れているテーマがしっかりしているため 映像の迫力だけに終止するのではなく、ラストでは思わず涙がながれるシーンもありました。 ひどい戦いシーンの合間に、美しく静かで穏やかな映像もあり、それらは短い時間にも関わらずかなり効果的に印象的に用意されていました。
アメリカ人好みの肉体美もさることながら、「真の男らしさ 強さ」を兼ね備えた300人の兵士達に私の小さなオメメもハートマークでした
女性の私から思う、真の女性らしさは「落ち着きと慎ましさ」です。 男性を影で支えつつ、どんな状況でも凜としている…この映画での王の妃は まさしくそんな女性でした。 真の男性らしさは、「心身ともに鍛錬され、弱者に限り無く優しい」こと。 この映画の王は、まさしくそんな男性でした。 死も恐れないほど強いのに、弱者に優しく、妃の意見を尊重し…
この映画から学んだこと。「子供に愛を伝えることが大事」、「自分の為に生きているのではなく、人の為になるように生かされている」、「人ではなく真の神に仕える」、「神の武具を身につける」
迫りくる敵、人間を殺していくシーンを見たままに受けるのではなく その敵たちを、この世で私達が出会う試練や災難だと考えて映画を見るときに この映画が見やすくなり、映画で伝えようとしていることが判りやすくなると思います。 その時に、次の聖書のエペソ人への手紙6章の10節の御言葉を思い出すのです。
「最後に言う。 主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために神の武具で身を固めなさい。 私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅くたちうるために、神の武具を身につけなさい。」
300人の兵士達の持っている盾と槍、剣が「神の武具」=聖書の言葉であり 人間が作ったものに心を動かされるのではなく、信念を強く持って真の神のみに仕える時に、どんな困難や障害も乗り越えていける。 神の武具で身を固めて神を謳歌し、人生を歩んでいこうと教えられました。
映画の中で、敵に寝返って300人の兵を裏切った人物に王が、ただ責めるのではなく、「そこまでして、長生きがしたいのか?」と質問した言葉がとても印象に残りました。
10 | 2024/11 | 12 |
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他に好きなものは音楽とヨーロッパと洋服。
現在http://ameblo.jp/kopa1tutu2/で、出産とわが子についてのブログを更新しています。そちらもこちらも共々、よろしくです~。