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お風呂の時の石鹸か 寝具に使われている洗剤が
何らかの理由で目に入り 化膿して眼やにのように膿がどんどん出てくる病気だ。
発症したのはここ最近のことだけど、すぐに治ると言われたのに
かれこれ3カ月は経ったと思う。
私の旦那様は、私がトゥトゥの目の異変に気付いた時、
「眠りすぎだよ」と言っていた。
これだからB型って…
症状の改善のためにやっていることは
手術などで使用している液を 数回目に流し入れ洗い
瞼に軟膏を塗る、それだけ。
ずいぶん改善しましたが まだ完治には至りません
軟膏を塗ったり、液で目を洗っている間
じっと小さな顔を 私に委ねて辛抱しているトゥトゥを
まじまじと 近くで見ていると
トゥトゥには悪いのだけど
とても幸せな気持ちになる。
病気があるから、この時間をトゥトゥのことだけ考えて
ふれあっていれるんだと
感謝の気持ちになる。
うちの二匹は、「死ぬまで付き合う」持病がある。
3日に一度、薬を飲んでいる
仕事、育児、家事…自分の時間さえ作りにくい今
コパンとトゥトゥのことを考えるだけで 悲しい気ちになる
以前のように つきっきりで遊ぶなんてほとんど出来ずにいるから。
でも、動物病院に薬を取りに行く時
薬をあげるとき
その小さな時に 病気の意味を悪い事ばかりではないと
感じてしまう
都合いいかな
トゥトゥのお目目が早く治ってほしいと思いつつ…
病気がなくても ゆっくりコパンとトゥトゥの顔を
うっとり眺める事が出来る日を 早く来いと祈ってます
ほんと、
人生何が起こるか予測不可能です。
今日、私は こんなんですが
恥ずかしながら、人生初の面接官になりました。
と、いっても私の産休の間に私の代わりに働く人の面接だったのですが
面接を受ける側ではなく、選ぶ側になったのです。
上司に、「面接を同席してほしい」と言われて
内心、嬉しくありませんでした。
人を見て、適任かどうか判断できる脳みそは私にはないと思ったので…
上司3名と私の、計4名に囲まれて
面接を受けた人たちは、皆一様に緊張していました。
「私もこんな風だったなあ…」と、遠い昔?を振り返りながら
面接の時間を過ごしていました。
本当に、どの人も選ばれそうな優秀な経験と英語力をもっていました。
今日のうちで一人に決めないと、私の休みに入るまでに採用できないからと
3時間かかった面接が終わって すぐに
誰にするか話し合って
お昼時間をはさんで、決定することになりました。
とても悩んだのですが、採用に決定された人は
今日、面接を受けた中で一番堂々としている人でした。
上司たちは、その自信あふれる態度に好印象を受けたらしいです。
彼女のことを大絶賛していました。
きゃー。
まったく私と逆のタイプじゃないの。。。(--)
容姿端麗、仕事のデキル後任が来て、
はたして私の席は半年後にはあるのでしょうか???
なんてな、心配も心をよぎりつつ、
でも、とても良い人が採用されて今はホッとしています。
面接官のくせに、今朝は4時に起きて眠れず
面接の用意なんかをしていました。
人生初なので、私のほうがドキドキしてしまいました。
決定した後、力尽きた私は
ヘロヘロで
午後の仕事に支障をきたしました。
今回のような経験、そうできるものじゃないので
私を参加させてくれた上司に感謝しました。
この上司、「変わり者」と多くの人から言われて 確かにつかめない人柄なのですが
彼がいうことや、やる突拍子もないことは
いつも私に「良いこと」を運んでくれます。
不思議な存在です。
いろんな意味で今回の面接は勉強になりました。
選考に入った人たちは、見た目も中身が出ているような穏やかな雰囲気で
清潔感があり、履歴書もこれまでの頑張りを表していました。
私の代わりなんて五万といるんだわ!!
と思い知らされましたし、
だからといって、自分の足りないところに向き合うのではなく
彼女たちのように頑張って輝いている人をみて
私の長所をもう一度考えて、それを伸ばすこと、
もっと、努力すべき部分を良くしていきたいな感じました。
「こんな人になりたい」という目標をもつことは
とても大事だなと思わされました。
私のだんな様は人と出会うことが多いし
特に女性は綺麗で中身も良い人がいっぱいいるもんな…
心惹かれる人、いるかもな~ (心配)
と、こんな事まで思いはじめて
かなり 焦りモードの11月なのでした。。。
そのユダヤ教一家ですが、夫婦が共働きで子供が3人いました。
思うに、旦那様は会社の社長だったのだろうと。
奥さまはアパレル会社の社員でデザイナーのような感じでした。
2日ほどロンドンに出張…という時もありました。
奥様がいない時は、とてもホッとしました。
実は奥さまは、いつもカリカリしていて怒っていたのです。
旦那様と話すとき、ドアの開け閉め、子供に話すとき、私に指示を出すとき…
いつでも怒り、怒鳴り散らしていました。
慣れない私が、シーツのアイロンがけに手間取って、
3時過ぎまで残っていた時、仕事の途中で庭の様子をたまたま見に来ていた旦那様が
暗い中アイロンをしている私に驚き、「適当でいいんだよ。いつも、ありがとうね。 帰りなさい」
と優しく言ってくれたのですが
次の日、奥様が
「あんなに遅くまで残っていいって、頼んだ覚えはないわよ!どういうつもり???」
と私に罵声を浴びせました。
それを見た旦那様が、怒って 夫婦げんかに発展していました。
私がバイトでいた3週間ほどは、毎日こんな調子の夫婦でした。
たまたま、その期間だけ 彼女の機嫌が悪かったかも知れないし
私の仕事内容に腹を立てて 家族にまであたっていたかもしれません。。。
でも、ある日
教会に行く家族の姿を見て 驚きました。
あんな日々を過ごしているのに、車で出かける姿はまるで
幸せを絵にかいたような一家でした。
そう考えて、良く見れば、
家中の写真立てや本棚には 熱心な信者である家族の姿が見れました。
あの家族の(特に奥さんの)様子に、当時の私は
「神様を拝むのと、普通の生活とは何も関係がないんだなあ」と感じました。
その時の私は、教会から離れてしまっていて
特定の宗教を持つことに 怖さがあったので
(洗礼は受けていても、十字架の意味が理解できていなかった)
「やっぱり、宗教を持つって難しい。 いいとは思えない」と
更に強く思うのでした。
職場の他の同僚も、
キリスト教の教会に誘われたけど 断ったら
「地獄に落ちればいいさ」と言われたとか。
それから彼女は、「教会なんて絶対にいくもんか」と思い、
キリスト教に対して悪印象を受けたそう。
彼女に後々、神様の計画の中での良い導きがあることを祈ります。
以下はあくまでも、私の意見なのですが
宗教を持っているから幸せになるということではないし
幸せの基準というのも、人それぞれの価値観によって違うもの。
先に挙げたユダヤ教の家族のように、
「神様を生活に常に意識しているような熱心な信者だから
何もかもが夢のように幸せ」…ということはないし
私のようなキリスト教者の家庭も、同じようなもの。
私たちは空の下で、同じ不完全な人間として生まれた
ただの人間どうしなのです。
宗教を持つことで、他と何か変わる良いことがあるとしたら
日々の疲れや、悲しみも 取り去ってくれる大きな御方に
寄りすがることができるということ。
心が休める憩いの場所ができるということ。
心に喜びがあり、余裕があることは 人のことも思いやれるし
自分のことも 許せる。
犯してしまった罪も、その次の瞬間に示されるので、
他人の許せないことも、自分の罪深さを知る時に 本当に許すことができる。
日々反省し、感謝して与えられた命を生きることができる。
富や地位、名誉という言葉が無意味に感じられるような
これまでとは180度違う価値観が与えられたり。。
だから、「宗教」という言葉によって
人の間に差別や偏見、尊敬しあえない
理解しあえない状況が生まれることがあっては、とても残念。
*********************
最近、職場の同僚にキリスト教のことを教えてほしいと頼まれた。
いろいろ私なりの言葉も出ては来ますが、
考えた末、一番いいと思い
新約聖書と三浦綾子さんの「新約聖書について」解説した本をあげました。
アメリカ人のだんな様と最近結婚し、
熱心なクリスチャン一家の彼は彼女にもキリスト教を学ぶように言ってきたと…
彼女は先祖崇拝を大切にしているのですが、
旦那様のために教会に行き始めました。
キリスト教に関しては解らない事だらけの彼女なのです。
私はその彼女の姿勢に感動しました。
と、同時に彼女に教会に行く決心をさせた彼にも感動しました。
でも、最近、彼は沖縄の行事…
特にお盆や正月に仏壇に手を合わすことに関して理由をを知れば知るほど
快く思わないらしく 来年からはどうしたらいいのかと悩んでいるそう。
彼女としては、キリスト教に一歩近づこうと努力している自分のように
彼のほうも、沖縄の宗教に歩み寄ってほしいと思って、願っている。
彼が先祖崇拝に対して 嫌だと言い始めている今、
彼女自身もどうしていいか分からなくなって 悲しいそう。
神様に対する思いが開花するのは 人それぞれ。
時期は神様の導きの中にしかない。
ただ、熱心さのあまりに
自分の意見を押し通して、キリスト教を強要するのではなく
大きな神様に、お互いの先の道を委ねて
私たちにできることは
イエス様が伝えた愛や寛容を 世の中に「行いで示していく」ことが役目だと
思うのです。
内容を知ることは大事だけれど、
人を拝むことは間違っているけれど
その前に、
目の前にいる人が大切にしている事への気持ちを尊重し
相手の文化や慣習に理解を示せたら、もっと良いと思う。
相手を理解しないと、こちらの事も理解させられないと思う。
クリスチャンになって これまでの人生と180度変わったけれど
その素晴らしさを伝えることを使命と思っているけれど
その前に、
私は なんの取り柄もない ただの一人の人間として
心を平安にして、人の幸せを日々祈るのが
神様から与えられた事だと思います。
「だれでも、自分の益を求めないで、他の人の益を求めるべきである。
すべて市場で売られているものは、いちいち良心に問うことをしないで、
食べるがよい。 地とそれに満ちている物とは、主のものだからである」
コリント人への第一の手紙 10章24:26
私の栄光を表すのではなく
神様に栄光を帰するのが 私の役目
勝手な意見ですが、
心のなかの葛藤や 悩みを一番理解して知っているのは
神様だし
自分の云々の主張やらをする前に、
人の気持ちを大切に立てるとしたら
神様は喜んでくれると思うのです。。。
私たちクリスチャンの心の中で、天地創造の唯一の主が確かにいることを
誰よりも神様はちゃんと知っていから。
そうでなければ、宗教をもつことに抵抗を覚える人は
減っていかないと思います。
おはようございます。
こちらは天気予報を無視した、雨続きの天気が続いております。
でも、お昼にはちゃんと太陽が照って
雨が降るといっても 明け方や夕方、昼間の通り雨(主婦の敵!) 夜中の雨などなどで
朝日が昇る頃は 清々しい、美しい空と空気が 雨上りの香りを含みつつ 目の前に広がります。
昨日は芝刈り機と3種類の草木をDIYセンターで購入しました。
今日、旦那様は張り切って、ずいぶんと伸びた芝を刈るんだと思います。
1階に住む私の母は、高圧洗浄機でブロック塀の汚れを落とすんだと
一週間前から意気込んでいます。
夕方には この家の外周りがかなり綺麗になっていることと期待されます
今、住んでいるこの家は
ブログに前記した通りの中古物件です。
昨日からコンベンションセンターで始まった「トータルリビングショー」に
去年の今頃、母と妹と出かけたのを覚えています。
その時はまだ、前に住んでいた家も売っていなくて
不安と期待の中にいました。
でも、神様が側にいるし いつでも必要なものを与えてくれるので
必ず良い導きがあると 確信がありました。
不安になったり、諦めたりすると
いつでも 必要な友からの励ましと聖書からの御言葉があり
私たちに前進するための 勇気と元気をくれました。
そうして一年後…
与えられた家のために、芝刈り機や花木を購入する私たち。
「ああ、感謝だ!」と 昨日はあらためて実感でした。。。。
ところで、
もう10年以上も前の話ですが
イギリスに留学していた頃、短期のアルバイトで お金持ちの家の清掃をしたことがあります。
もともとはスペイン人が2年も続けているバイトでしたが、
年末に里帰りする間だけ代わりにやってくれる人を探していました。
こ金が必要な私にとっても、良いことだったので話が来たらすぐに引き受けました。
その金持ちの家は ユダヤ教の家族の家で
その周辺の地区はユダヤ教の人たちが多く住む場所でした。
朝の8時からお昼の2時頃までの短時間のバイトでしたが
出勤?するときには たくさんのユダヤ教の人たち(黒装束に長髭の、黒いハットを被った)
とすれ違い、帰宅する時には、日も暮れていて(冬は明るい時間が短いので)
その通り周辺は歩く人も少なく、私はいつも足早にバス停へと向かっていました。
掃除のバイトをしていた家は かなり裕福でしたが
住んでいる家は古く、周囲と同じような作りです。
イギリスでは(全部の地域がそうかはわかりませんが) 建物の高さや外観に一定のきまりがあるそうで
だからなのか、家が立ち並ぶ姿は日本とは比べ物にならないくらい
整っていました。
その決まりの範囲内で 各々の家が庭や門に工夫を凝らしていて
中に住む人のセンスや住まいに対するこだわりを感じることができました。
何よりも、古いものを大切に使い続けるのが 本当の裕福として
人々が受け入れていたような気がします。
町でも新築は少なくて、リフォームやガーデニングをするためのテレビ番組が
多かったのを覚えています。
***************
続く…
今日は職場で 交通事故に関するビデオを見た。
ショッキングな映像が満載で、妊婦の私には刺激の強い内容となっていたので
突然その勉強会に「行くように」と言い、私たちに選択の余地を与えなかった上司に
腹が立った。 3時間近くも座って そんな映像を見ることになるとは思わなかったから。
痛むおなかを押さえながら、映像を見ていて
今更ながら、事故の怖さを実感した。
本当に、不慮の事故に遭って 辛い思いをしている人が沢山いるんだ
現実に起こりうるんだ。
と、思わされて 結果は この勉強会に出たことを感謝した。
現実に起こってしまったことを
パソコンを操作するように 巻き戻したり 再操作はできない。
あたりまえだけど、
じぶんの身に、もしも こんなことが起こったら、ただひたすら、
起こる前の時間に戻したいと思うはず。
映像を見ていて、今の何もない、普通の時に感謝した。
一気に今までのいろんなことを考えた…
守られて今日まで来れたことに感謝した。
私の過ぎて行った過去の楽しくなかった時間も
神様によって、益と変えられ 逃げ道も備えられた時だったと思いだした。
もしも、今から 何か大きなことが起こったとしたら
解決できるのは自分ではなく 神様であり、
いつでも側にいて 共に歩んでくださっていると安心も与えられた
それをあらためて確認できた 良い時間だった。
…お腹が痛んだと 書きましたが
ショッキングな映像は あまり関係してなかったかもしれません。
今日、突然、今までで一番お腹が大きくなっている気がします。
私の旦那様も昨日までは「まだ大きくないな~」と言っていたのに
今夜、私のお腹を見て 大きな目が飛び出そうになっていました。
陽笑くんは 生まれる気満々です。
強い子になりそうだ。
毎週、片付ける部屋をきめて少しずつ引越しの準備をしています。
いらない本、雑誌、小物、洋服をリサイクルに出したり。
家がスッキリ片付く上にちょっとした、おこずかいもリサイクルショップからもらえるので一石二鳥でございます。
その流れで、写真の整理になりました。
リサイクルはできないので、バラバラになったものをアルバムに整理し
いらない写真は捨てます。
そうして、この30年近くの思い出を振り返ることになりました。
写真を撮るのは大好きで、特にイギリスに行ったときは
ヨーロッパ人に「ほんとうに日本人だ」と言われるほど、
何かと言えば 「写真とってもいい?」でした。
あの時はヒンシュク者でありましたが、今見てみれば かなり楽しい時間を過ごしたことが
写真を見るだけでわかります。 撮っていてよかったーと思いました。
普通の日々でもよく撮っていて、
整理をしていたら「こんな人もいたな」「ここにも行ったな」…と 驚くほどの思い出たち。
私の記憶から消えていないと思っていた出来事が、何倍にもなって甦ってきました。
神様が私の中に根付いていない頃にも
こんなに私は神様に愛されていたんだと 写真を見て感謝でした。
あの写真の時は、笑顔ばかりじゃなくて葛藤ももちろんあったけれど
いつかはこうして通り過ぎる一瞬の時だったんだと
しんみり。。。
今の状況が良くても悪くても、これは続くものじゃないから
すべての時に感謝しているべきだと 再確認しつつ。
楽しい時、幸せな時、 それが壊れる時を想像して怖くなるけれど 大切に感謝するしかない。
悲しい時、苦しい時、 それが終わる時を想像できなくて怖くなるけれど
私がいま見ている写真たちのように いつまでも続かない。
いつかは完全に過去となってしまうだけ。
毎日、罪ばかり犯してしまって反省ばかりだけど
そこに留まらないで、神様からもらったたくさんの恵みを見て前進あるのみ!
写真を撮っていてよかった。
私の人生もまんざらじゃないと感謝できたし、
今は神様に出会えて これからもっと良くなっていこうと思えるから
彼も長男だから 親戚が「早く継ぎなさい」とうるさく言われているとのこと。
その彼のお父さん(住職?)は、とても厳格な信仰の持ち主なのに
年に一度のクリスマスだけは 盛大に祝うらしい。
ツリーも飾って、サンタの格好で プレゼント交換も。
彼は そのギャップに戸惑いながら 毎年クリスマスを過ごしつつも
疑問に思い、何故に他宗教の行事を祝うのかと質問したら
「クリスマスの雰囲気が大好きだから」
との答えだったそうです。
面白い!!
どんな形でも、キリスト教から出たものが人を楽しくさせたり 喜ばせたりしていると
知ったときに とても嬉しく感じます。
こんな風に、とても寛容に他宗教の行事も喜んで祝う人を見ると
もっと幸せで嬉しく感じます。
世界中が、もっとお互いの文化や宗教に 理解と尊敬を示して
敵対や否定で終るのではなく、
神様から学んだ愛や、もらった幸せをお互いに分かち合える時
ほんとうに戦争はなくなるんだろうなと改めて思わされました。
そのニュースを伝える、大変な映像が映し出されている。
被害者の無念さを思うと 何も言葉が浮かばない。
加害者の心の歴史を思うと 神様の言葉にすがるしか道が見当たらない。
この事件があって、人が 人と接することが怖くなる世の中にしてはいけない。
「ほんとうの自由」を考える 意味のある時間にしなければいけない。
聖書の言葉:
フィリピの信徒への手紙第二章3節から5節
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、
へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
めいめい自分のことだけでなく、
他人の事にも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。
それはキリストイエスにもみられるものです」
犯人の男性はひどい失望感と孤独感に陥っていたようだ。
心に強い痛みがあったはず。
それが何かは分からないけれど、
その男性がいた場所では、その男性の錯乱状態を止めるきっかけはなかったのだ。
日本の教育で、人に対する尊敬心や道徳、
弱者に対する配慮や 本当の愛、優しさを正しく伝える時間は多くあるのでしょうか?
家庭でも、そのことについて真剣に子供と考える時間を持つことが
とても大事で必要だと思います。
私が小学生の頃は「道徳」の時間があったり、
祖父母と暮らしていたので
小さな私の目の前で
祖父が飼っていたウサギや鶏、ヤギを殺して見せたりしました。 (夕ご飯用に)
命の重さはその頃学ぶことが出来たと思います。
それでも、母一人で私達を育てたので
「尊敬」や「愛」を学ぶ時間は家庭ではほとんどなかったと記憶しています。
みんな、良い本や良い人に出会って、
良い経験をしてから 少しずつそれらを学んでいくのでしょうが、
注意しないと、現代の情報が氾濫しただけの世の中では
自分の関心のあることばかりを拾い 見て
「尊敬」や「愛」を学ぶことはほとんど難しいでしょう。
上の聖句を、多くの人が(私も含めて)持つことが出来て、
どんな人にも優劣がないということを理解しなければ
真の優しさと思いやりを持たなければ、
良い世の中にするのは難しいと感じました。
彼は氷山の一角だと思うのです。
私だけかもしれませんが、手作りの食事が「つわり撃退」には良いようです。
気分が悪いからと、家事を休んでお店で買ったお弁当や手軽な栄養バランス食品を食べると
もっと「つわり」の症状は悪化し への字口になります。
逆に、少しの生鮮野菜を買って 無理なく調理できる炒め物などを作って食べたら 普通の つわりのない状態に変身 仕事も家事も、どんどんこなせます
いつもより、体が敏感になっているのかもしれません。
口から入るものは、私の身体を作るだけではなくて子供の成長にも関係してくるから「気をつけないと」って反省しました。
考えて食べているわけではないのに、身体は口に物を含んだ途端に それが良いものか悪いものか分かるんだ…って知って感動しました。
昔、マクロビオテックという食事法を 学んだのですが
自然のものを手をかけて味わい、
その土地から採れない不自然なものは 口にしないというような食事法でした。
とても理に叶っていて 良い食事法で
マクロビオテックの目指すところは 「世界平和」でした。
どういう意味かといいますと、
食事を良くする事で、心身を美しくし、精神の落ち着きを取り戻す。
現代の食事では、それを長い間取り続けると
気持ちを一瞬で高揚させるものが多いため、
自律神経の乱れや
脂肪と精製された砂糖類によって多くの病気を引き起こすことが分かっています。
私はチョコレートとメロンパンを食べ過ぎて過度のPMSになり、病院通いをしても良くならず
色々調べた結果、マクロビオテックにたどり着いたのでした。
徹底してこの食事に変えたら、すぐに体が変わるのが分かりました。
病気もすぐによくなりました。
薬を使うわけでも、特殊な言葉で暗示をかけるわけでもなく、
毎日の食事を日本人らしい、本来の食事に戻しただけで
チョコもメロンパンも 食べたいという感覚すら消えてしまいました。
あれには びっくりでした!
身体は知っているんです。
神様が創ったものだから。 誰に教えられるともなく、正しいものを分かっているんです。
聖書も同じです。
聖書の言葉は人間が言う 「哲学の分野」に入るものではありません。
理屈うんぬん…というものでもありません。
ある日突然、心が分かるのです。
私が判ろうと思って聖書を読んでも、絶対に分かりませんでした。
でも、そこに書かれている美しい言葉や 誰かの通った歴史に 本物があることを、心が分かっていたのだと今なら分かります。
神様の創ったものは 本当に見事です。
昔会った誰かに言われた言葉
「もしも誰かの態度で あなたが傷つくことがあっても
絶対に相手に対して悪い感情を抱かないほうがいい。
その人の その時の状況が その時だけ良くなかったから
あなたに対して悪い態度をとってしまったかもしれないから」
その言葉を思い出して いちいち行動することは出来なくて、
いまだに人の態度に「カチン」と来てしまう、未熟者である。
なぜこんなことを 考えているのかというと、
ここ最近のツワリの苦しさで
四六時中、眉がへの字になって口もへの字になっている私。
気持ちが悪いから、仕事中でもこんな不機嫌そうな顔をしている。
今の私から 私を知り始めた人はきっと 「いつも不機嫌な怖い人」と思っているはず。
本当はこんなに優しい心の持ち主なのに~い (????)
これからは、第一印象で人を決めるのをやめようっと!!!
(そんな私は、だいたい一目ぼれに走る人でありました)
反省会おわり
…そんな感じで過ごしていると、思いっきり笑ったり 踊ったり 跳ねたりしたくなる。
さきほどは大好きなイギリスのラジオ局を聞きながら、流れてきた曲にのって
うちの二匹のワンコと踊っていた。
コパカバ~ナ
リズムにのって、トゥトゥの前足をつかまえて フリフリ踊っていたら
トゥトゥの体から 「ポキッ」っと
なんだか一瞬、トゥトゥと目があいました。
あ~びっくりした。
その後、たまたま開いた聖書に
「あの犬どもを警戒しなさい」 ピリピ人第三章三節
チラッ (コパンとトゥトゥが見ている)
ドキッ (私、いそいで目をそらす)
びっくりした。
分かっています。「あの犬ども」は、本当の犬の意味ではないことを。
面白いタイミングで見てしまった この言葉。。。
さっきの「ポキッ」は、トゥトゥの骨の変だったところが治った音だったらいいな~。。
私達を見つけたおばーも「あいあいあい」と驚いた様子で何かボソボソつぶやきながら 震えた泣きそうな声で嬉しそうに話しかけてきた。 (でも、あとでそれは、私の母と思った間違いだったと知りましたが) 久々に会えて、嬉しいのと同時に「忙しい」と言って会いに行かなかったことを心から後悔しました。
前回に比べて、なんとなく、介護施設の雰囲気が違って見えて
(夜だからでしょうか)
「働いている人たちは偉いなあ。」としみじみ思ったのでした。
「いつかえれるのかな?」と何度も私達に問いかける おばー。
私達は何も良いことを言えなくて、だまっていました。
施設で思うように自由に生活できていないんだなと おばーのふとした行動で見ることが出来た。 周囲の状況に対して、とても気を使っているように思えました。 働いている人たちは みんな忙しそうにしていて それぞれが精一杯、出来ることをしている。
正直、従業員の人数は足りているのか心配になるほどでした。
よくしてくれる従業員達に、言えずに我慢していることも沢山あるんだろうなと あって少しの時間で感じることが出来ました。
私達が高校生になるまで、大切に育ててくれた 第二の母親のようなオバー。。。
おジーちゃんや、みんなが過ごしている家にはもう1年以上帰っていない。
とても、とても 寂しそうだった。 優先順位の中に、おばーちゃんを入れていなかった事を反省しました
あの一緒に住んでいた頃の、沖縄の瓦屋敷の仏壇前の食卓に座って、みんなで囲んで食べた おばーちゃんの手料理や 30分ごとに鳴る振り子時計や、ドリフターズの番組を見ながら横になる おじーちゃんの様子や 庭に集まる雀たち…
あの風景には もう二度と戻れないのだと今更ながら思い涙。
世の中には沢山のことがあるけれど、老人ホームに行き 沢山の人たちの老後を目の当たりにして
私たちの現実は一瞬の夢なんだと分かった。
若い世代の人たちや、現役で働いている人たちの今は戻れない過去に。
どんなことをしてきても、「老い」と「死」は誰にも必ず平等にくるもの。
目先のことに捕らわれずに、「老い」と「死」とを意識して、
今という時を、大切に喜んで生きなきゃ…
糸数さんはむかし、学校の先生をしていた方。
3年前の無教会の徳島集会で沖縄出身のちょげはるさんとお友達になった。
ランチを食べながら、不思議な感覚。
3年前にチョゲハルさんが知り合っていなければ、糸数さんとこうしてランチはしていない。
年齢差20歳以上の お友達?だ。
わたしがキリスト教徒でなければ、絶対に知り合えなかった糸数さん。
糸数さんはしきりに、「偶然ってないのよね~。 面白いわね~」と言っていた。
ホンとにそうだ。
よく笑うし、話は尽きない。 無教会なのに やけに教会に詳しくて情報屋。
本も沢山読んでいて、チョゲハルさんは何冊か借りているらしい。
あっという間の3時間だった。
帰りに会計まで誰よりも早くササッと走って行き、「あとでまとめてね!」と糸数さんが払ってしまった。
店を出てすぐにチョゲハルさんがお金を渡そうとしたら
「いいのよ~!!!!!」と 大声で
チョゲハルさんのシャツの右肩をわしずかみにして大きく振り、チョゲハルさんごと財布に入れそうな勢いで叫んだ
人に全く気を使わせない、話し上手で優しくて面白い糸数さん。
糸数さんのような人に出会うと、キリスト教信者でよかったと思ってしまふ
例えば、同じように見える目の前の写真たても汚れたり、色あせたり、割れたり、微生物がついたり…必ず変化しているし分子レベルでの変化は相当なものらしいのです。
私の体もある周期で変化しています。 皮膚が再生したり、食べた物で体質が変化したり。 昨日は元気だったけれど、今日は不調で気持ちまでふさいだり。 今もっている考え方も、出会いや体験、経験をすることで変化します。
聖書を読む私にも変化は起こる。 御言葉は同じでも、状況や経験によって受け取り方が変わるということ。 それは長い間クリスチャン生活をしている人ほど、感じてきたことだと思います。 人は変化する。 根底は変わらないという人もいますが、良い思いを持って神様に願うときに 善い変化が与えられると信じています。
そう考えると、どんな人にも聖書を受け入れるチャンスはあるのだと思えて嬉しくなります。
永遠の命…
聖書で言われている「永遠の命」とは、単純に「長いこと生きる」という意味ではありません。
イエス様を知ってからは、この人生が終って後に許されて天国でイエス様に会えるのを楽しみに思う時もありましたが、聖書を読めば読むほど自分の持っている罪の深さ、信仰の浅さに 「私は天国にいける」と自信を持って言うことができなくなりました。
ただ、イエス様から学んだ「本当の愛」を知ったことは この世に天国を見出せたような喜びでした。
今与えられた人生をより良く生きれたら…と思えるようになりました。 この希望がこの世で終ることのない「永遠」だと確信しています。
ヨハネによる福音書17章
「永遠の命とは、
唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたが使わされたイエスキリストとを知ることであります」
本当にそうです。
今は必ず過ぎ去ります。 人は変われます。 もしも、出口が見えない人生の迷路の中にいる人がいたら その重荷を背負って一緒に迷路から抜け道まで案内してくださる神様の事を受け入れてほしいです。
変化の中にある私たちの人生を、永遠を与える素晴らしいお方が善い方向へ導いてくださいます。
その物件は何度か見に行っているのですが、図面と外観だけで興味はありませんでした。 でも、不動産やさんが薦めるので 「ためし」に中を見に行ったのです。
びっくりするほど広く、三世帯住居+母さんの美容室を叶えられそうな建物で なんと築6年。 4階からの眺めは絶景でした。 価格も安く、「これは買いだ!」と家族全員気に入って(私の旦那様以外)話は急展開に
月曜日には買い付けの申込書に印も押して、ウキウキ気分で土曜日の契約を楽しみにしていました。
「神様の御心がこの建物にあるのでしたら、無事に購入までお守りください。 そうでないなら、何らかの形で話を止めてください」 と祈り火曜日になりました。
土曜日に契約書を交わす事になり(売主がわの都合で)、急なので、改修場所の見積もりを出すために朝一番に担当者に電話をして、業者さんを読んで午後、現地で詳しく話しながら大体の金額を聞いておおまかな見積もりを出してもらいました。
夕方、帰宅してから旦那さんに説明しました。 実は、急な展開に彼は多少納得していない部分がありました。 でも、改修工事で気持ちも変わるだろうとの事で話を進めようとなったのです。
工事内容と改修工事の金額の結果を伝えました。
「ちょっと待って」とパソコンで なにやら計算し始めました。
彼が出した計算結果の総額が、新築を建てたほうがいいんじゃないかという内容になりました
びっくりです。
その後、夜中まで二人で計算し続け どんな家が理想かを話し合い、とことん意見を出し合って 結果、この中古物件は買わないことに決めました。
今朝、断りの電話を入れました。 担当者はとても一生懸命に良くしてくれたので電話を切るまで心苦しかったです。 お腹を壊してしまいました。 土曜日からずっと寝不足で、頭はフラフラです。
まさか、あんなに気に入っていた場所を自分で断ることになるなんて思いもしなかったので この過程には神様の導きがあったのだと感謝しています。 何か、守られたような気がします。
今回、短時間で沢山の学びがありました。
ふだん、喧嘩も言い合いもしたことなかったのですが 初めて旦那様と大声でいいあいをしたりして かなり意見をぶつけ合いました、でもそれがかえって心地よいほどでした。 喧嘩といっても、建設的な話し合いと言った感じのものです。 とことん話し合うことがあまりないので、とても嬉しかったです
旦那様が今回の事を通して、私の母さんの事も大事に思って考えてくれているのを知ることができ、感謝です。
あと、もう一つ。
買おうとしていた物件は、負債を抱えている家族が担保に取られた家でした。 土曜の契約へと急がされたのも、売主が払わなければいけない借金があるためでした。
家自体はとても綺麗でしたので、建てた始めの家族みんなで越してきた幸せな時が容易に想像できました。 それが、6年で手放さないといけなくなってしまったのは 本当に辛いところを全員で通らされたはずです。
この物件を買おうとしたことで、そういう家族がいるということ(実際に会いましたが)を知るために 私達を神様があの建物まで導いたとしたら これからの祈りの課題に あの家族を入れなければと思いました。
これからの人生を、あの家族が幸せに歩めるように 頭に描きながら毎日祈ろうと思います。 神様の守りと祝福が、善い時にあの家族に訪れるように。
この世の中の沢山の事から 私と私の家族を見守って 助けてくださる神様に感謝を 今回また更に強く思わされたのでした。
小さい頃から「泣き虫」と言われていました。 悔しい時、悲しい時に人目をはばからずよく泣きました。 10代の頃の涙は親に怒られた時と別れの場で多かった気がします。
20代になって、感動して泣くことが増えました。 映画を見たり、ドキュメンタリーを見たりと 良いものを見て「おいおい」と泣くのは気持ちがいいです。 感動を求めて映画を見る傾向がありました。
30代になってからは、夜空の星とか、一緒に暮らしている犬たちの愛らしさだとか、神様が作られたものを見て「幸せ」を感じて泣くことが増えました。
そして20代までと違うのは、精神的に追い詰められた人たちを見たり、その末に起こった事件などを見ると…一度、私も自分を追い詰めた頃を経験したからか 少しだけ気持ちが分かるので 涙が出てきます。
今日、職場の同僚と日野原重明さんの本の話をしていました。
途中で、彼女は一昨年前に亡くなった母親を思い出して涙を流し始めました。 その彼女を見て、私は、彼女の気持ちになって思いやって泣くことが出来ませんでした。 私は自分の気持ちの冷たさにショックを受けました。
私の周りには、相手の気持ちになって悲しんだり泣いたり笑ったり出来る人が沢山います。 私は私が経験したことしか、涙のつぼまで刺激しないようなのです。 早く言えば、自分の事でしか泣けないのです。
相手と同じ気持ちになり、痛みを一緒に分け合える…そんな心の持ち主になるために 私は辛い所をもっと経験して 心を研がねばと思わされました。
今日泣いた 私の同僚は 私のたわいのない話にも「いいね~」と言って 涙をウルウルさせます。 優しい彼女から学ぶことは多いです。
映画、「マトリックス」の最終章の戦いのクライマックスシーンで 厚い雲にかかった灰色の地上から一瞬だけ雲を突き抜けてその上の空間へ出るシーンがあります。 そこは無音で、白い雲の絨毯が延々と続く空間です。 そして、まぶしい太陽の光が悪と戦う主人公を照らし出します。 彼女はそれを見て「きれい」と言い、涙を浮かべ、またあの暗闇に戻っていきました。 感動しました。
この映画はストーリーがとても聖書的で、三部作になっていますが最後の最後まで主人公ネオの行動にイエス様を重ねて見ることが出来ました。 作った方は、絶対聖書を読んでいるだろうと思っています。 私達はこの映画のように、精神的な暗闇にいると思います。 悪の力は善を求めれば求めるほど、大きく強く押し迫ってきます。
映画の中ではネオが自己犠牲という最大の武器で、悪を倒します。 この世で唯一、私達が悪に対抗できるのは「自己犠牲」です。 イエス様のように命を捨てて私たちの罪を贖ったのも自己犠牲の「愛」の表しであり、命を落すまでなくても他人に対する「敬意」や「尊敬」、「思慮」には自己犠牲 (自分の事は構わない、相手を尊重する)の心が必要だと感じます。
「仮想世界」という柱がストーリーの中にあります。 主人公ネオは、沢山の情報に流され追いかけられます。 自分の思い込みで作り上げた世界に私達は住んでいて、実際にそれらは 発達したメディアなどの情報網から選んで私達は限界を作り上げているのです。 沢山の同じ自分ではなくて、一つの大事なもの…個性は神様が与えてくださったかけがえのないものです。 思い込みと限界を捨てて、自由に光を浴びることが出来るように 神様は願っています。
長くなりました。
最後に大好きな「アンネの日記」より…。
(アンネの日記を読んだことがない方へ。 オランダに住むユダヤ人だったアンネフランクは、1942年から1944年まで自分宛ての日記をつけていた。 ナチスに連行されるまで小さな隠れ家に家族と他の家族の8人で二年間過ごした。 捕らえられてから、1年内に捕虜収容所で息をひきとりました)
「追伸ーペーターへ、思いつくままに。
私達はここで、とても寂しい思いをしています。不自由なことは沢山ありますし、それも随分長い期間になります。 あなたと同じに、わたしもそれを寂しく感じているのです。 たんに物質的な面のことばかり言っているとお思いにならないでください。 その点では私達は恵まれすぎるほど恵まれているのですから。 そういうことではなく、わたしの言いたいのは、精神的な面のことなのです。 あなた同様、私もやはり自由にあこがれ、新鮮な空気を渇望していますが、いまでは、そういう不自由にたいして、私達はじゅうぶんな代償を得ていると考えるようになりました。 代償と言っても、内面的な代償のことです。
今朝、窓の前に座っているとき、私は外を眺めて、そこに自然の奥深さと、神様の存在とを実感として感じました。 そのとき私は幸せでした。 そしてぺーター、ここでその幸福を手にしている限り、自然に対する、健康やそのほかの多くのものに対する喜びを感じている限り、そのようなものをずっと手放さずにいる限り、人はいつでも幸せをつかむことができます。 どんな富も失われることがあります。 けれども、心の幸福は、一時覆い隠されることはあっても、いつかはきっとよみがえってくるはずです。 生きている限りはきっと。
孤独なとき、不幸なとき、悲しいとき、そんなときには、どうかお天気のいい日を選んで、屋根裏部屋から外を眺める努力をしてみてください。町並みだの、家々の屋根をみるのではなく、その向うの天を眺めるのです。 恐れることなく天を仰ぐことが出来る限りは、自分の心が清らかであることを自覚し、そして、これからもきっと幸福を見出せると信じている限りは、いつでも。」
山だったところを道にする… その道を通るたびに、道を作ることの凄さを感じる。 何もない、木の生い茂った岩のある地面を道にする…始めに道を作る人、どんな世界においても そういう人達がいて、その人たちが苦労して開いて出来た道を 私達は難なく通っていく。
苦労の必要がなく、選択の権利も与えられているということは 必ずしも良いことではないのかも。
一つの道に長い時をかけてじっくりと向き合うことは ほとんどないだろうから。
「駄目か」と諦めた時に、他の道を選べたら もうそこで、同じ道に戻ることはないだろう。
昔は苦労する必要が多く、忍耐が自然に備わった。 選択も多くなく、一つの道を究める人が多かった。
その人たちが通った、犠牲になったおかげで 私達は楽であり、快適であり、苦労しなくてすむ。
イエス様が旧約聖書を正しく解き明かしたことで、私達は今、心に平安があり 恵みを感じながら日々を過ごすことが出来る。 でも、イエス様はそれをしたことによって 十字架にかかり犠牲となった。(他にも多くの理由を十字架は含んでいるが) それは全て、今日に生きる私のような罪人の為であった。
苦労しなければならない…とは思わない。 ただ、気をつけて 先駆者達が作った道を心にとめて、当たり前に車で通る道も自然破壊と過酷な労働の上に敷かれていると感謝したい。
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。 そして、そこから入っていく者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。 そして、それを見出すものが少ない」
マタイ第7章13節
ピリピ人への手紙 4章4-7節
この御言葉は、いつも心にある御言葉です。 でも、無意識に思い煩っている自分に気がつくことが多く、「喜ぶ」事は なかなか簡単なことではないと日々、思わされます。 少し前に、ある人が 喜んで生きることが神様への最高の恩返しと言っていました。
先週の事ですが、仕事でやりとりのある人から「Aさんはもう、出勤できないの知ってるよね?」とメールで言われて 急だったので Aさんがいないことで仕事が中断されるので 「事前に知らせてくれなきゃ困ります」なんて少し強めに返事したら 「Aさんは亡くなったんです。 知らなかったんですね。」といわれました。
Aさんはまだ若い男性で、これからバリバリ仕事をしていく…って思ってました。 ショックでした。 死は誰にでも訪れるけれど、私はまだだろう…って思っています。 いつ死ぬか分からない。 だから大切に生きようと思って毎日生きたいけれど なかなか出来ない。 身近な人の死は、そのことを再び思い出させます。
コパンとトゥトゥのことに関しては、いつも死を意識して過ごしています。 「10年一緒にいれるだろうか。」という思いが 二匹を見るときに常にあります。 二匹が死ぬときに「生まれてよかった」と思ってほしいです。 死を意識するときに、喜びや幸せが大きくなってきます。
「私は必ず死ぬ」ということを、常に心に持って大切に生きていたいです。
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他に好きなものは音楽とヨーロッパと洋服。
現在http://ameblo.jp/kopa1tutu2/で、出産とわが子についてのブログを更新しています。そちらもこちらも共々、よろしくです~。