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高校を卒業するまで学生時代は 「ブス」というだけで、ひどいイジメを受け
それを親に言えずに 家では明るく振舞っていたのこと。
高校を卒業してから、道で久しぶりに会った高校の部活の先輩(いじめていたリーダー)が
「お前は面白いから、吉本にいけば?」と薦めたのが発端となって
吉本に入り、お笑いの世界に入った。
森三中という3人グループで活躍し、今では大人気になっている。
何年か前に人気放送作家と結婚していて
傍から見たら、幸せを絵に描いたような彼女。
でも、昨日の番組では 結婚は「偽装」だった事を知りました。
放送作家である旦那様が、話題作りのために お笑いの彼女と結婚したのだ。
飲み会で彼女と同席するたびに、「結婚しよう!」と彼はしつこく言っていて
彼女のほうも「あいつに馬鹿にされている」と分かり、悔しく思いつつも
側で見ていた仲間たちは「仕事が増える」という理由で結婚を推し進めた。
それまで二人っきりでいたこともない、手もつないだこともない二人が
婚姻届を出して、結婚したことになった。
結婚して2年の月日が経つ間に お互いに尊敬できる所を見出し、
いつしか本当に愛情を持つようになった。
去年、彼女は流産しています。
結婚のくだりで、私が面白いと思ったことは
異性として意識したことがない、何の期待もしていない二人だったから、
お互いがやることを すんなり受け入れることが出来て
怒ることがなかったというところ。
旦那さまは彼女がすることを とても面白がって
いつも喜んでいて まるで友達のように過ごし
彼女の何もかもを 受け入れてくれたそう。
彼女はそれに心を打たれた。
また、彼は 彼女が昔イジメにあっていたことを聞いてはいたけれど
ある日、冗談で彼女の呼びかけに応えなかった時
彼女が泣いて、「無視するのだけはやめて」と本気で訴えたそう。
その時に彼は
「こんなに繊細な人と結婚したのか。 もう彼女を傷つけないようにしなければ」と
心に決めたそうです。
今では、色んなことを二人で経験し共有し
お互いに「この人となら一生笑ってくらせるだろう」 と思うくらいの仲
番組の終わりに 大島さんが言っていた言葉に また感動しました。
「終りよければ全てよし。 神様からのプレゼントは 試練だった」
先週、眠れなくて夜中ベランダから月を見たときに、確か満月で天気もよく 静かな風が吹いていて もうそれだけで感謝でした。 同じ月を見て、同じ時に苦しんでいる人がいるかもしれない。 次の瞬間がない人もいるかもしれない。
でも、私はこの場所を与えられて 健康が与えられて 神様の愛を感じることが出来て…日々の生活でもちろん、私なりの悩みがあって それを考えるのに時間を費やしてしまう でも、そんなことは「悩み」に入らないのだ と、神様が創ったものを見上げるたびに思わされてしまう。
NHKの番組、「きらっと生きる」で統合失調症の患者が40年ぶりに社会復帰するのを見た。 彼は淡々と自分の事やこれまでの病院生活のことを話していた。 病院ではない、普通の生活がとても楽しいと言う。 そのとき、ナレーターの説明で彼が生まれて5年後に両親が亡くなったと知る。
ハッとした。 彼が退院できて、普通の生活に戻れても一緒に暮らす家族はいないのだ。 それを喜んでくれる人はいないのだ。 天涯孤独。 この番組を見ている限り人に関わるのは寮の人たちとケースワーカーの女性のみだった。
私のように当たり前に、何でも相談しあえる家族がいるということが 当たり前でない人たちも沢山いるのですね。 「当たり前」だと感謝も忘れてしまうような日常が、恵みであることを教えられました。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」
試練の時こそ思い出したい。次も解決して下さると。 (定期購読している、「今日の静聴」より…)
試練と思うようなことも、解決への出口が見えないときも、孤独を感じるときも 状況にうろたえるのではなく、これまで神様が私にしてくださった良いことを思い出して感謝し、喜ぼう。 そして神様が共に次も乗り越えてくださることを、期待し 祈りつつ前進あるのみ!
聖書について知りたい、キリスト教について知りたい…という方は ぜひ参加してみてください。 お薦め☆
詳しいことは こちらまで→http://pistis.jp/textbox/default.htm
「何でも 躊躇しないで遠慮なく神様に聞いてもらおう」でした。
「神様を自分の人生に思う存分巻き込もう」と言っていました。
天のお父様は何でも 正しい気持ちのところには最善の備えをしてくださいます。 わたしは願いがあっても十分に神様に話していないし、対話の時間もそれほど多くとってないと気づかされました。
「人生に神様を巻き込む」…とても面白い表現だと思いました。
遠慮せずに、日々の中にもっと多くの神様の言葉を取り入れるべきだと思わされました。
おじーは88歳になるのに、今回の腰痛が久しぶりの病院。 戦争の時は満州に8年いて、終ってからは5年前まで畑仕事で食べてきた。 とても体が丈夫だ。 だから、このお正月までは「おじーは若いよね~」とか言うと 年寄り扱いしてほしくないようで、「あたりまえだ」と怒り気味に言っていた。 昔からこんな調子。 優しく見えるけれど、実は頑固で強い沖縄のおじーだ。
なのに今日はめずらしく、「老化だよ。年取ったら、こんな風に病院に来てしまうさ」なんて言っていた。入院して寂しいのかな。 だけど 帰りには強がり言って「もう来なくていいからね。ただの老化だから、すぐ退院だからね。」といっていた。 私に対しての思いやりの言葉だと すぐに分かった。
おじーには自慢の奥さんがいる。 今は老人ホームにいて(足が悪いので車椅子) 仲間と元気に過ごしている。 年上女房だ。 おバーは多趣味で、いつもせっせと何かを作っている。 今頃の季節だと、手編みのマフラーや帽子。 造花も作るし、人形も作る。 これで今まで畑仕事と家事育児、全部やってきた。 歌も上手く、三味線も上手い。 話すことが面白いので、どこのデイケアセンターに行っても人気者で看護師や周囲の人々に愛される。 それを、おじーは見て喜ぶのだ。
自慢のおばーは昔、強い女だった。 戦争中、一人で5人の子供を育てた。 彼女いわく、「近所の10名くらいは、おばーのオッパイで育った。 良く出るオッパイだったから、他の子供もみんな育てたさ。」 笑いながら聞いていたけれど、よく考えてみたら、私が友達や近所の人の赤ちゃんにお乳をあげるということになる。 すごいんですけど。。。
強い女、おばーは つらい更年期になって(55歳くらいの頃)「死にたい」と思った。 その頃にイエス様を夢で見た。 これは私が小学生の頃から言っていることで、初めて教会に連れて行ってくれたのも、おばーにだった。 何も分からなかったので、信仰には直接つながらない経験だったけれど、今となっては嬉しい思い出の一つだ。
私は小学生の頃、祖父母の家にあずけられていたので 眠る前と起きた時に おばーが「健康祈り」と称して必ずイエス様に祈っていたのを見てきた。 起きてすぐ10分くらい祈り、眠る前にもひざまずいて長いこと感謝の祈りをしていた。
今、こうして書いていて 自分でも忘れていた記憶を思い出せた事に驚いてます。 教会と祈ることは、おばーの影響だったんだなあ。 嬉しい。
仏壇のある家だったので、おばーは沖縄の古くからの先祖崇拝もきちんと守っていた。 「神様は愛の方だから、何でも大切にするのを喜ぶ」って言っていた。 聖書も読み、祈り、受け継がれている土地の文化も守っていた。 女であり、母であり、嫁であった…全てをこなしていて、イエス様にも出会えたんだなあ。。。。
おじいちゃんと今でもラブラブのおばあちゃん。 その秘訣のようなものを、以前に聞いたような気がする。 誰に対しても言葉では負けず強かったおばあちゃんは、唯一、おじいちゃんには勝てなかった。 何かおじいちゃんに言われたら、すぐに涙目で言い訳をしていたのを覚えている。 そして、私によく言っていた言葉が
「負けるが勝ち」 と 「幽霊よりも怖いのは、生きている人間」
前者は痛いほど分かるし、私がまだ乗り越えきれないもの。 永遠のテーマになっています。 理不尽なことに遭遇するとすぐに怒ってしまう私…この言葉と、神様の愛があるから少しずつ穏やかな性格になってきました。 今でも何かあると、「負けるが勝ち」を思い出します。 この言葉に従って生きれたら、旦那様や家族、周囲の人を幸せに出来るのだろうなあ。
おじーとおばーのラブラブの秘訣はこの言葉にあると思います。
今年も一ヶ月が過ぎようとしている。 はやい~。
今日は久々に晴れていたので、二匹を連れてちょっと遠くまで散歩に出かけました。 風が気持ちよかったです。
最近、自分の行いについて反省すべき点を示されて ちょい落ち込み中。 聖書を読む時間がないので、世の波に乗ってしまいました。 (しかも自ら乗りに行きました) 聖書を離れたら、本当に駄目です。 私。
世界中のどんなものよりも美しく優れた神の言葉を、日々心に摂りいれる事ほど私の体と心にとって大切なことはないと思います。
ふたたび神学校や聖書学校に通いたいなと思いっています。 独学では学べない、歴史背景もイエス様が過ごしたイスラエルの土地の文化も含めて聖書を学び、また各国や原語での意味と解釈の違いを本格的に学ぶことで、あの完璧で美しい神の言葉がさらに心に深く刻まれるのです。
最近気がついたこと。 暗闇が怖くなってます。 聖書に強くつながれているときは、全く怖くはありませんでした。 悪霊さえも支配される、全能の神に守られていると確信があったから。 この時の「神意外は何も恐れない」思いって、昔に迫害され殺されたクリスチャン達もきっと同じだったのだなと 今、気がつきました。 死をも恐れず、「神様から頂いたこの身体は、いずれはお返しするんだ」という気持ちで 毎日をひたむきに大切に、神様だけを見上げて生きていたんですね。
今の私なら、迫害されようものなら「え? クリスチャン? この私が?」って言う気がする。。。(--;)
私は聖書から離れると、自分の考えだけが頭をグルグル回り 思考回路がショートして機能に障害が現れ、焦ったり、批判的になったりします。 視野も思いっきり狭くなり、神様が用意してくださった自然や動物達の完璧な美しさに目が行かなくなります。 世界に目がいかなくなり、自分の生活に追い回されます…
わたしは確信しています。
死も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリストイエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことは出来ないのです。
(ローマの信徒への手紙8章38~39)
この言葉を胸に生活していた頃に、私を創ってくださった神様に、帰ろうっと!
私のランニングパートナー、コパン(1歳メス)は最近大人になったので むやみやたらには走らなくなりました。 私としては、以前のようにコパンには精力的に私と走ることに生きがいをもってダッシュして欲しいのですが、どうやら無理はしたくないようです。
私とコパンは何処か似ていると 旦那様にいつも言われるのですが、近頃はコパンの体の線もまあるくなってきて無理はなるべくしない…と 更に似てきました。 どうしましょ~。
そんなピンチの二人のもとに現れた 救世犬トゥトゥ(10ヶ月、メス)! 私達の最近の散歩は、彼女の励ましと要望のみによって成り立っています。 はたから見れば、ダッシュで通りを走る「黒いちっこい犬に特訓を受けている人間と茶色い犬」に見えると思います。(運動公園でやらないと、危ないぞ)
トゥトゥの体の曲線美は私達とは程遠く、細くしなやかで 黒い毛はキューティクル満載です。 四つの足もそれぞれ細く長いので9頭身かと思われます。 魔法をかけて人間になったら、トゥトゥはきっと伊藤美咲になるだろうと思います。 コパンは… 私は… 。 (ただ、入れ替わるだけなんじゃないの?)
以前の日記にも書いたのですが、トゥトゥはもともとコパンの遊び友達として緊急養女と受け入れられたのでした。 (私の一目ぼれもあったけれど) 神様の計画は素晴らしく、コパンだけの需要のみに終らず、私にとっても頼もしい「ランニングコーチ」となったのでした。
あ、でも、新コーチ、走っている途中で通行人に攻撃するのは やめてほしいです。 あと、興奮すると 旧コーチを噛むのもやめてほしいです。 旧コーチ、そのあと凹みますから。。 このまま、順調にコーチとしてのお仕事がんばってほしいです。 よろしくです。
「失うこと」 多摩集会、大田さん
私を最初にイエスキリストへと導いてくれた伯父が尊敬申し上げておりました、森本慶三先生(内村鑑三初期の弟子の一人)は、あるとき伯父に次のようなことを話してくださったそうです。
「人は聖書に従って 上へ昇っていくものと思っている。 が、実のところは下へ下へ下がっていくものだ。 大きく大きくなることじゃなくて、小さく小さく蟻さんになあれ、ということだよ。 聖書を読んで教えられることは、沢山のものを得ることではなくて、失うこと。 イエスは下へ下へ降りていったといっておられます。 随分沢山の涙も流さなくちゃなりません。 いや、今ではその涙さえも思い上がりであるように思われます」 捨てない限りは、「学問、憧れ、自尊心、偏見等々といったガラクタを捨てない限りは、ここからなかへ入っちゃいけないぞ、というところのあることが、その森本の言葉で初めて分かった」と伯父はいっております。…
私に戻って…
なんだか、じーんときました。 「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」 誰の言葉だったか覚えてませんが、まさしくそんな感じです。 仕事で時々、とても高い地位にいる方が謙虚で誰に対しても穏やかに接しているのを見たとき、本当に感動します。 相応に威張っている方に比べたら、100倍かっこいいと思いました。
聖書という、神様の言葉に触れて どんどん頭は垂れるべきだと思いました。 人生の目標は「頭をたらす」に、今、決定しました。 パチパチパチ…
金曜から睡眠不足です。 金曜は仕事を終えて、早速、実家の荷造りへ行ったのですがさすがに18年近く暮らした家だと荷物がハンパなく多くて、夜中まで作業に追われました。 家族が少なくてこれなら、他の家庭の引越しって 我が家にないものも沢山ありそうなので怖いです。
引越しによって、いらないものが削減され財布の中身と共に更にスリム化した私の実家。 引越し屋さんが土曜の早朝に来て、三時間ほどで引越しは完了。 天気は「雨」を見事にすり抜けて、三時間天気の良い中での引越しとなりました。 4階までの心臓破りの階段(しかも途中から細くなる)を、引越しのお兄さん達は見事にクリア。 さすが、元ヤンキー!(見た目で勝手にヤンキーと思っている) かっこよかったです。 お詫びに 吉本弁当とレモン水をセットで贈呈いたしました。
なかなかの眺めの、仮住まい。 修繕が必要な箇所はあったけれど、全て優しい大家さんが新品に換えてくれました♪ ガスコンロがないので中古品でもあったらと思い、従姉に中古品店を聞こうと電話したら 「あまっているから使わない?」と言われました。 え~!!!ガスコンロがあまっている家なんて、ナカナカないと思いますよ。 なんという幸運。 従姉よ、ありがとう (T-T)持つべきものは、物持ちの良い従姉だわ。
妹と二人で「ラッキーすぎるね。神様、ほんとに凄い」と、疲れながらも感謝に浸ったのでした。
居眠りしながら 過ごした日曜の礼拝も、心の底からの安らぎを感じて幸せでした。
今日、私は仕事でしたが 売った家を掃除していた妹によると…家を買った家族が4、5名でワイワイと見に来ていたらしくて 嬉しそうだったとの事。 我が家を購入した方は、一緒に見に来ていた家族に自慢げに話していたそうです。 聞こえた妹は「とても嬉しかった」とのこと。 それを聞いてますます神様の計画の素晴らしさを実感し、新しくそこに住む家族の、今後の幸せを祈りました。
私にとって今いちばん幸せな瞬間は 人の嬉しそうな顔を見た時(沢山の人たちがそうであるように)。 でも、20代の後半までは 自分の中で「やった!」と満足があるところに 幸せな瞬間があった気がします。 それから少し変化し成長(?)したのか、奉仕精神のない無意識の自分の行為に人が感謝をしたり嬉しそうにしたりする時が嬉しかったりします。
今回の事で言えば、「家を新しく買いたいから、やらなくてはいけない事」だった行為の「家売却」の過程で、思わぬ「買主の嬉しそうな笑顔に遭遇」してしまった時。 それが もの凄く幸せを実感させます。
日々の事で言えば、愛犬コパンとトゥトゥに餌をつくり、ペットシートを換える…二匹に喜んでもらおうと思っていなくて、むしろ「やらなくてはいけない」と化してしまっている日常の作業に、横目に見てしまった二匹が嬉しそうに私を見てはしゃいでいるのに気づいた時 「やばい」くらい幸せです。。。
イエス様のように、自分の益を求めずに 自分が出来る範囲で周囲の人を幸せにすることを考えて穏やかに生きれたら、与えたと思っていた幸せが実は自分に返ってくるのだと思います。 今回のガスコンロのように、私があわてなくても神様の備えは向うからやってくるんだなと思います。
自分の利益は求めない…ただ神様にのみ、満たされる人生。 最高だなあ。
うーん、でも
そこまで至るには、まだまだ訓練だ~。。。 私、きっと、長生きするわ~。
2007年のしめくくりの12月は、まさかこんな風に幕を閉じようとは。。。
そうそう、去年の今頃まさか実家を売りに出しているとは夢にも思いませんでした。 しかも、年内に売れてしまって 買主からはソフトに「退去」を迫られています。 沢山悩んだ末の結果なので、売ったことに後悔はなくて「♪」むしろ音符マークがフワフワしています。 神様が共に歩んでいると、感じているからでしょう。
「絶えられない重荷は負わせない。必ず逃げ道を用意してくださる」 神様に全てを任せて歩めたので、これから先の事も安心してお任せいたします。 自分ひとりでは背負ったりしません。
わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。私はあなたを癒す。 第二列王20:5
神様、優しいっすね…(;-;)
家族はこれから、仮住まいのアパートを借りて次のステップへと進みます。 犬が二匹いるのですが幸いにも私の住んでいるアパートが「ペットOK」なのでしばらくの間、ここに引き取ることに。(?) ってゆうことは、四匹の犬を飼うことになるのです。。。賑やかになります☆
最近寒いので、コパンとトゥトゥに洋服を着せるのですがトゥトゥが慣れてなくてすぐに脱いでしまう。 その割には、ブルブル震えているので何度も着せます。 慣れるまで根気良く。 トゥトゥにとっては、服を着るなんて嫌なこと。 彼女にとっては数少ない試練の一つだと思います。 でも、親の私はそれがトゥトゥに必要なことだとしっているので、彼女の為に忍耐を持って教えていかなければなりません。 神様が私達に向けられている愛は、ちょうどこんなものだと思いました。
私達が分かるまで、自分の良い習慣にするまで、根気強く経験や試練を通して必要なことを教えているのですね。 知らないときは「なんで私にこんなことが」って思うだけですが、それを感謝して受けるときに神様が教えたかったことが分かるようになるのです。
30歳になる手前に、鬱になりました。 その時は、ただ苦しくて日々を生きているのが辛かったです。 その頃はまだ、鬱の知識が一般的に浅いときで 私自身も鬱になっていることに気がつかずに一年くらい経過していました。 雅子様の適応障害に関するテレビ番組を見て初めて、私に起こっていることが欝だと判り、同時期に頭に出来ていた円形脱毛で「私、疲れているんだ」と知ったのでした。
渦中にいるときは、生きていたくないと真剣に思っていました。 何もかもが不安で、滑稽で、無意味に思えて…恐怖心と共にいつも過ごしていましたから友達と約束も出来ず、かといって、本も読めず、テレビも見ることが出来なくて 独り言をブツブツ言いながら机の周りを回っていたこともありました。
渦中にいるときは、「どうして私がこんな目にあったのだろう。 どうして皆、馬鹿らしい世の中を生き抜いていこうと思うんだろう。」って思い続けていたのを覚えています。。。淀みの中、抜け出せなくてもがいていました。 でも、「鬱だよ」って言われて同時期に神様の言葉に触れた時、奇跡的な回復力が与えられました。
復活してからは、鬱になって良かったと心から思いました。 それは、長年うつ病で苦しんでいた妹の気持ちを分かる事が出来たからです。 それまでは、どうしていいか分からないので心療内科に通う妹をそのままにしていました。 病院で治るとしか、思っていなかったので。 でも、自分が鬱という気持ちを体験したことで 彼女の痛みが同じように判ることが出来たのです。
神様の御計画の中に置かれていたのを感じたのは随分と時間が経ってからなのですが、それからはどんなことにも神様の最善が用意されているんだと期待できる強さが生まれました。
再び教会に通うきっかけになったのは妹のおかげです。 でも、心療内科に通わずに彼女の鬱を克服することが出来たのは 私に鬱を経験させてくれた神様と、苦しいときに祈りあうことを教えてくれた神様でした。。。誰かが、「心は心でしか治せない」と言った言葉が心に木霊しています。
もし、私が鬱になっていなかったら 彼女はどうやって克服できたでしょうか。
もし、妹が教会に誘わなければ、私自身の鬱の克服も難しかったでしょう。
人間は一人では生きていない事、神様に命を与えられて生かされている事、希望も愛も神様から与えられていることを私達は学ぶために生まれてきたのだと思いました。
今年もあと一日!
に~っと笑顔で2007年にお別れしましょう!!!
3日間歩きっぱなしの旅。日ごろの運動不足がたたり、昨日の帰りの飛行機内で背中に冷たい痛みが走るようになり、湯船に入る気力もなかったのでそのまま眠ったら明け方に体中が痛くなり動かなくなりました。 それで今日は朝の5時に湯船に入ってました。 今日、仕事を休みとってて本当に良かったです~。
東京に行くと「虚無」をいつも感じます。 華やかで、人には活気があって街も綺麗で…。 あの中で、流行の情報や虚栄心に流されず生きるのは並大抵のことではないと思います。 皆、ほんとうに幸せそうでした。 生き生きしていました。 流行の最先端の街に似合う人々たちと多くすれ違いました。。「怖いもの無し!」って感じです。 うらやましいくらい。 でも、さすがに、田舎暮らしの私は3日でギブアップです。 脳が疲れてしまいます。それに、東京に行くと神様が見えなくなります。 何故だろう。。。
いつも東京旅行では日曜を挟むことが多いので、必ず宿付近の教会に礼拝に行きます。
他の地方への旅行でも必ず礼拝に行きます。 不思議と東京で礼拝に行くと、いつも涙が出てきます。
キリスト教書店にも行くのですが、書店内でまた号泣です。鼻水もたらします。
沖縄ではこんな風に教会で泣くなんて、ほとんどありません。
旅行で疲れているのだと思いますが…他県への旅行での礼拝は泣いたことがありません。
今回の旅で初めて、渋谷あたりの交差点でキリスト教の人たちが(どういった教派なのかは知りませんが)通行人に向けてキリストの愛を伝えている活動をしているのを見ました。 マイクでかなりの大声で「あなたの罪の為にキリストが死なれた」、「神様はあなたを愛している。あなたの中にある罪を認めなさい」、「あなたは罪びとです。」と通行人に向けて言っていました。
正直な気持ち、良い印象は受けませんでした。 「?」でした。 しかも誰も聞いている様子はありませんでした。 あの人たちはキリストの愛を伝えたいので、一生懸命伝道しているのです。それは凄いと思います。きっと、良く思わない人たちもいるはずです。罵声を浴びせる人もいるでしょう。寒い中、一生懸命「あなたは罪びと」と繰り返していました。「罪があることを認めなければ、地獄に落ちる」と大きく掲げられたプラカードには太い文字で書かれていました。
東京ですれ違う沢山の人たちは、一見華やかに見えても 実際は色んな事情を抱えている人が多いのだと思います。 だから東京の様な夢の街にいて、自分の可能性を探していたり きらびやかな中で日々の不安や重荷、虚しさを忘れられるのだと思います。 都心には圧倒的に若者が多く、ちょっとはずれた所の住宅街では年配の方や、大変そうな家や人を見ることが多いです。
私も若く、がむしゃらに生きていた頃 色々な出来事があっても 自分を信じて自分の中に解決策を見出そうと努力しました。 マイナス思考に走ったり、落ち込み気味のテンションになっても好きな音楽を聴いたり 良い本を読んで 「よ~っし!前進あるのみだ!!」って…打たれても タダでは起きないぞと、意気込んでいました。
今の若い人たちはどうでしょうか。(私が若くないみたいな言い方???プンプン)
きっと、向上心があり ダークな世界にはあまり目を向けないように努力し、弱音を吐かず、弱みを見せず、いつも明るく面白い…って「理想の自分像」の中にいる努力をしていると思います。 日々を生きるのに精一杯で忙しい人たちに 「罪を認めないと 地獄がまっている」と言っても現実味がない、必要を感じさせない言葉だと思ます。
わたしが「神様に一生、ついていく!」と決心したのは 聖書の言葉に平安と平穏を見出せた時でした。 優しい光に包まれたような中で、「罪深いあなただけど、私はあなたを愛している」と神様に言われたときでした。 きっと、帰る家が怖い家だと遠回りしたり道草したり…帰りたくないと思ったりします。 帰る家に「ああしなさい、こうしなさい」と口うるさく言う家族がいると笑顔が消えるでしょう。。。しかも、「あなたは罪があるから、このままだと地獄に落ちるよ」と言われたら これから先、心から喜んで生きることは難しくなります。
罪と地獄は、人間が判断することではないと思います。 神様が判断することです。 全く罪を犯さないで生きることは無理です。 不器用な弱い人間を、神様は愛しています。 聖書に書かれている「真理は自由を得させる」という言葉が大好きです。 聖書と神に触れることで、恐怖心を植えつけられて日常の生活ができなくなったりするのは神様が望んでいることではないと感じます。 私の場合、神様に本当の意味で出会ってからは 気持ちが自由になり「中途半端で取り柄のない、こんな私でもいいんだ」と安心しました。
心に平安があると、自然に罪が見えてきます。。。日々の恵みを知り感謝の気持ちが溢れると、神様にすべきことは生かして守ってくださったことへの恩返しであって、罪ではないと自然に思ってきます。 聖書で言う罪とは奥深いものがありますから、自分で意識して回避できるものと出来ないものがあります。 だから、まだ聖書の神様に触れていない人に 始めに罪の話はすべきではないと思います。
神様に出会ってから、一番良かったなと心から思うことは「人の為に祈る時」、「希望が持てる時」と「ゆだねて歩める時」です。 「罪が判ったから、悔い改めたから地獄に行かなくて済む!」と考えて嬉しかったことは一度もありません。。。
沢山の人たちが神様の愛に気づいて幸せな気持ちになるように祈ること、愛と優しさをもって神様を表すことがクリスチャンの役目だと思います。
11章の1節から5節まで。
本日の牧師の声にはいつも以上に力がありました。
中でも心に残った言葉は「私達が礼拝に来ているのは無意識ではない」でした。
小さい頃は 「なんとなく行きたくて」教会に行っていました。
牧師の説教の意味が理解できずに、礼拝中は睡魔との闘いでした。
それでも行きたいと思って毎週参加していたのが とても不思議です。
その状態は、ここ最近まで続いていました。
行かなければ済むはずなのに、足は自然に向かっていました。
今日の礼拝のこの言葉に答えがありました。
他では得られない平安が、教会にあることを
魂の部分ではすでに感じて 知っていたのでしょう。
ここ3ヶ月の間、色々ありまして、実家を売却することになりました。
今日は不動産やさんが、室内の写真を撮りに来ていました。
いよいよ この家が広告に載るのです。
ペンキを塗ったり、掃除をしたり、いらないものを処分したりと
売却に向けて本格的な掃除を毎週のようにやってきました。
掃除をしながら、この18年間すごした家での時を振り返ってみて
今となっては全てが感謝です。
昨日、掃除中に私の小物を入れている箱を開けたら
「なつかしー!」
ルルの写真が出てきました。
写真はきちんと額に入れてあって、大切に包まれて保管されていました。
ルルはこの家で10年ほど飼っていた猫です。
家を建てた時に、前の家から一緒に引っ越してきました。
室内で飼ってたので寝るときも、食べるときも
何をするときも一緒でした。
バイトで遅くなっても私が帰ってくるまで起きていたし、
私が落ち込んでいるときも、すりよってきて慰めてくれました。
ほんとに大好きでした。
昨日は不思議と、家を売る準備をしている最中に
ルルの写真を見つけたので 妹に見せて二人で思い出話しになったのでした。
で、ルルの最後の日の話になったところで
不思議な気持ちになりました。
10年前だったと思います。
ある夜、隣に住んでいる従姉が 「ルルが車にひかれてるよ!!」と心配そうに言いに来ていました。
走って道路に出ると、目の前に、我が愛猫の車にひかれた姿が。
手が震えました。
「とうとう、この日が来てしまった」
袋を持ってきて、ルルの亡き骸をいれました。
顔を見たかったのですが、つぶれていて確認できず…でも体の模様は確かにルルでした。
時々、外に出していたのを悔やみました。
心が潰れそうな思いでその夜は眠りました。
朝になりました。
庭を見ると、ルルが「ニャー」と来ていたのです。
「あれ~??? 生きていたんだ~!!!」と嬉しくてルルを抱きしめました。
お腹が空いてるのだろうと、餌をあげました。
安心しましたが、その1週間内に、すぐにルルを見かけなくなりました。
あげた餌も食べられていなかったので、体調が悪いのかな?と思っただけでした。
でも、それからはずっと帰ってきませんでした。
いつの間にか、「もしかしたら…」と思い始めていました。
探すことはせずに、「餌をもらう家を変えた」と思うことにしました。
昨日、この話を妹にしている途中で
車にひかれたのは本当にルルだったかもしれないという気持ちに。
ルルと思って道路でひかれた猫を
片付けてくれた事にお礼を言いに 翌朝、来ていたのかも。
昨日まで、「猫の死体を拾う事件&ルル失踪事件」がリンクするなんて考えたこともありませんでした。
眠る前に思い出して、涙が止まりませんでした。
ルルが失踪してから8年目にしてやっと、
本当の意味でルルとさよなら出来た気がします。
一緒に過ごした家を去ろうとする私達に、もう一度、思い出してほしかったのかな?
それは、ルルがそうしてほしいのではなく、
神様がそうしてほしいのだと思いました。
ルルの事を思い出したことで
更にコパンとトゥトゥの存在を 尊く思うのでした。
死というのは、生を輝かせるものなんだなと 改めて感じました。
不当な従業員の賃金引き下げに対してのものです。
引き下げに関しては今回で3回目になると思います。
他にも2回ほど、ボーナスカットや繰り上がってO万円の徴収などが全員にありました。
前回は4時間のストライキ。
参加しました。
でも、その後にいろんなことがありました。
同じように参加した人が、「僕だけは早めに切り上げたから、1時間は仕事したことにして」と、
1時間分の給料を自分だけもらおうとしたのです。
結局、そのように 申請しましたが、とても嫌なきもちでした。
みんな経済的にも大変なのに、4時間仕事を無給で休んで抗議の意を示した!
なのに、自分だけですか?!!
組合員は毎月給料から安くはない組合費を払っています。
それは組合の執行員と従業員の給料として払っているつもりです。
その人たちが、頑張って私達の労働条件を守ってくれるからとの約束のつもりです。
自分に出来る形での協力の意味をこめています。
私達は組合費を払っているのに、組合の力では阻止は出来なかったから
今度は更に、無給の状況にもなっている…
仕事があるから、働ける。
日本は明らかに 厳しい経済状況。
郵便局も民営化したほど。
周囲は確実に変化している。 ここ2、3年の話ではないのです。
そのことをふまえて、よく考えないとナって思います。
だから昨日は出勤しました。
一回目のストでは「影響は少なかった」とのりポートを受けたことで判断しました。
「何名か出勤する人がいます」と上司に伝えた時、
ストライキを理解し、寛大にに受け入れていたと思っていた彼が一言
「ありがとう!助かった!」と言った事でした。
忙しい私の上司は、安心していた様子でした。
自分のやったことを、改めて振り返ることが出来ました。
案の定、出勤してよかったと思えたほど、昨日はとても忙しくて あっという間の一日でした。
聞いたのですが、職場のに入る門前でストライキのプラカードを持って立っている人たち(組合員)の一部に
出勤する同じ従業員に対して 罵声を浴びせる人たちがいたそうです。
「俺たちが、みんなのために頑張るからな!」 ではなく、
「裏切り者!」みたいな事を言ったそうです。
ひどいなと思いました!
皆、一人ひとり、立場も仕事も家庭の状況も違います。
なぜ、理解しないのでしょうか?
このストライキの人並みを、くぐり抜けて出勤するのはかなりの勇気がいります。
多くの人たちは「出勤してごめんなさい」という思いを持っていたと思います。
そう、せざるおえない状況にいる人たちの為に
組合の人たちがいるのでは??
次のリポート次第では、
私もストライキにまた参加する選択をすると思います。
出勤した人を恨んだりはしません!
一人だけ1時間、得をしようとした人に怒ったのは
その人が私達に「がんばろう」と言った張本人であり、組合の役員だったからです。
人間が多くなると、その多数決の力で、少数を押さえつけようとするのでしょう。
宗教もそうです。
「神様を見上げる」といいながら、組織を形成してしまうと結局は人間の集まりなので、自分の経験や考え方で解釈した聖書観を植え付けあおうとすることが時々見られます。
私はキリスト教ですが、これまで会ったクリスチャンや牧師さんの中には
「クリスチャンでない人は駄目だ」と、心から言う人もいました。
悲しいです。
神様は、愛を知って欲しくて この世に私達を共存させています。
相手が何を信じていても、それを尊敬し愛することがイエス様の伝えたかった愛です。
クリスチャン以外の人たちを否定することは、イエス様の伝えたかった愛を歪めて伝えてしまうことです。
だからキリスト教は、日本ではなかなか広がらないのです。
「何をするにも愛がなければ、全ては無に等しい」とイエス様は言っています。
同じではない相手を押さえつける。 否定する。 そんな行為から、戦争が起こるのです。
自分の信念を 100%正しいと思ってはいけないと思います。
100%正しいのは 神様のみです。
イエス様の言葉。
マタイによる福音書5章44節~
「しかし、私はあなたがたに言う。敵を愛し、迫害するものの為に祈れ。こうして、天にいますあなた方の父の子となるためである。
天の父は、悪いものの上にも良いものの上にも、太陽を昇らせ、正しいものにも、正しくないものにも雨を降らして下さるからである。
あなたが、あなたを愛したものを愛したからと、なんの報いがあるだろうか。そのようなことは、収税人でもするではないか。
兄弟に挨拶したからとて、なんの優れた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。」
私も、自分の心から来た思いで腹立ってしまいました。
祈って許してもらおうと思います。
それを許してくださった神様に 感謝します。
この地球上に住む 沢山の人々が このように平和で平安な朝を迎えることが出来るわけではありません。
その中にいて、無事に夜を過ごす事ができました。
健康もあります。 感謝です。
この地球上に住む 沢山の人々が 全てを創造された主を知っているわけではありません。
どんな時も祈りを通して、あなたと対話することが出来るこの恵みを感謝します。
今日もまた、私が全ての選択を正しくすることが出来るように 助けてください。
そして私だけではなく、沢山の人々が(あなたが良しとする時に) この恵みを頂いているのだと知るように 今日も願い、祈ります。
私の上司は黒人さん。
奥さんは白人さんなのでハーフなのだ。
長男のパトリスくんに比べてジョージ君は、
髪の毛のカーリー以外は母さん似の金髪で肌も白い。
お父さんである 私の上司は
ジョージ君を抱き上げて、「可愛くてしかたがない」ようで
細い目が さらに細くなり、
大切に抱っこしたジョージ君を、皆に見せて歩いている。
普段の仕事姿からは、想像できないほどの 親バカぶりで
見ているこっちまで、トロケそう。
ジョージ君のホッペにキスの嵐である。
こんなにまで、自分の息子を可愛がる男性を見たことがなかったので
普段から尊敬する 私の上司を ますます尊敬。
その光景を見て、
きっと、小さい頃に私もこんな風に父に愛されて育てられたのだろうと
ふと、切なくなった。
永遠に同じ状態でいるのは、この世では不可能なんだな~。
父は私が小さい頃に、すでに家族を離れてしまった。
聖書にも書いてある。
永遠に変わらないのは 神様の言葉だけ。
それを知ってから、変わらない神様に委ねようと かなり気持ちが楽になった。
私の上司、ずっと変わらないで 家族を大切にしてほしいな。。。。
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他に好きなものは音楽とヨーロッパと洋服。
現在http://ameblo.jp/kopa1tutu2/で、出産とわが子についてのブログを更新しています。そちらもこちらも共々、よろしくです~。