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自動販売機でチョコレートを購入しようとボタンを押したら、
落下途中で、ポテトチップスに当たり
チョコとポテチが落ちてきた。
「やったー!」
お釣りをもらって事務所にもどり、ラッキーなことを同僚たちに報告☆
おまけのポテチを山分けした。
妊婦は宝くじを買うと当たるらしいよ~!
とかなんとか、言われたりしながら喜びを分かち合った。(平和だなー)
だけど、焼き肉ランチをたらふく食べに行った後だったので
あんなに喜ばれたポテチは
結局、全く手をつけられず終い。
当初の目的だったチョコだけは、無事に私の胃袋へ…
そのあと、デスクに戻ってお釣りを見たら
10円多かった。
これもラッキー?
自動販売機に返すべきか、10円という金額が私の気持ちをあいまいにさせた。
返すべきだったけれど
すぐにはせずに、何かのついでに自動販売機に行く時に戻しておこう
と、自分の財布にしまった。
今、この10円が私に「すぐ返すべきだった?」と後悔の気持ちをおこさせている。
たかが10円と、自分の財布にいれてしまった。
ささいではあるけれど、変な出来事だった。
中途半端すぎるような。。。
これも何か意味があって起こったはずだけど、今はちょっと分からない。
聖書を読んで、解答を求めていたら
聖霊さまの導きで ある日 「あ!」って分かるんでしょうね。。
助け主様、よろしくお願いします。。。
イエスは答えて言われた。
「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。
だれでもこの山に、動き出して、海の中に入れと言い、
その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、その通りになるであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、
すでに叶えられたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになるであろう」 マルコによる福音書11章23~24節
この言葉はイエス様が弟子達を連れてエルサレムからベタニアに出かけたときに
いちじくの木を見ていった言葉が次の日に成り、
驚いた弟子たちにイエス様が言った言葉です。
お腹が空いたイエス様が この木に近づいて見た時に
時期ではなかったので、実がひとつも生ってないませんでした。
そしてイエス様はいちじくに向かって
「今からのち、いつまでも、お前の実を食べるものがないように」
と言いました。
このくだりから始めに受けた印象は
「イエス様、そんなにお腹が空いていたの~?????」
(空腹のあまり、無花果の木に怒ったの??)
でした。 なんだか、親近感を覚えたり♪ (^0^)
ちがうか。
今は、そんな意味ではないと分かります。 はい。
このくだりから、私なりに解釈したことは
「葉をつけて実の生るはずの木なのに、実をつけていないことの罪」
です。
冒頭のイエス様の言った言葉を
そのまま読んでしまうと、
「神様を信じるだけで、祈るだけで、何でも叶ってしまう。」という意味になるだろう。
でも、そうではないということを教えるためにイエス様はいちじく(無花果)の木を枯らしました。
私たちが願いそうな展開は
次の日の朝、いちじくの木に実が生るということでしょう。
例えば、イエス様が「実がなるように」と言ったとして
次の日、
無花果の実を嬉しそうに食べるイエス様…
な~んだか、ちょっと違うような気がしませんか???
もし、自分のしたいように、利益だけを望んで
何でも良い展開に奇跡を起こすイエス様だったら?
「お金が足りなくなったから、袋の中に金貨が増えますように」と天のお父様に向かって
イエス様が祈り、次の瞬間、袋の中に金貨がザックザク…
それを見た弟子達も大喜び…って話だったら?
そんなイエス様だったら新約聖書は 現代までなかったかもしれません。
私の知っているイエス様は そんなお方ではありませんでした。
本物のイエス様は無花果の木を枯らしました。
これを読むときに、私は注意したいと思いました。
実をつける木らしくして、葉っぱだけ大げさにつけていても
信仰が伴わず、愛が欠けていたら…
聖書から離れ、うわべだけの行いで日々を過ごすとしたら
キリスト者としての実はいつまでもならないのでしょう。
どんなときでも、信仰深く 謙虚になることを神様は望んでるのですね。
教会の時間だけではなく、人前だけではなく、
普段の生活時間すべてに渡って
神様を求めるようにしなければ。
焦ることはなく不完全のままでもいいけれど、
聖書の御言葉から離れず、
優しい気持ちをいつも持っていたい。
実をつける時は 私や誰かが決めるのではなく
神様が握っているのですね。
そして、
願いが叶うまでに
必ず必要な学びをさせてくださる。
私が思うベストな時期ではなく、
神様が思う最善で最高な時期に、この願いは叶います。
そして、時に、祈っているうち、
願いの成就を時間をかけて待ち望んでいるうち、
その願いを 必要としなくなる私へと神様が変えてくださることもあります。
その頃には 不思議と違うものに価値を見出す私がいます。
ある牧師が言いました。
「願って、祈っているうちに、神様と対話しているうちに、
神様を知りたいと思っているうちに、
私からでた 欲の願いは洗われてゆき、
神様が私に必要だと思うことを願うようになる」と!
今まで多くの、私の願いは叶えられましたが
それには必ず一つの共通点があったと思います。
叶った願いは 私に必要なものではなく、
私にそれが叶うことで
他の誰かに喜びが行くことでした。
無花果の木が枯れてしまった。
ただ自分のためだけに願ったことは
神様は喜ばないでしょう。
目に見えて、夢のような願いが叶うとしても
苦労しないで手に入れてしまったら その価値は半減してしまうと思います。
手に入れるまで努力する過程に、本物の価値があるような気がします。
あと、最後に
「神を信じなさい」という言葉。
本当に、難しいです。(><)
実は私、恥ずかしながら
「信じることって何が難しいの???」って思い上がっているところがありました。
でも、この半年に渡る家探し&土地探しをしている過程で
神様に祈っていながら
不安に思ったり、風水を気にしたり…
恥ずかしいくらいに 不信仰な私が現れました。
目の前にある土地や家に対して
何様かのように 「ここが嫌、あれが変」と意見していました。
そんな偉そうなご身分ですか~???
神様、すみません。
深く反省しています
私の願いも祈りも聞いてくださって、
よい時に叶えてくださるばかりか
もっと良いものを用意して与えてくださる神様を
知っていながら
「どんなときにも信じる」ことが出来ない私です。
だから私は葉っぱばっかり生やしています。
本物の実が実る様子がちっともありません。
本当に、神様についていくって難しいです。
愛を持つって難しいです。
トゥトゥとの散歩よりも、難しいです。
ふ~つ
そのたびに、皆で励ましあいます。 うちの事務所は紙が落ちただけでも騒音に聞こえるほどの静けさなので、私に何か起これば、そこにいる全員が知ってしまうのです。
皆で色々話しているうちに、スッキリしちゃって 「頑張ろう!」なんて明るく気持ちが切り替えられます。 時間がたって、気にした張本人の上司が 私の周りをうろちょろし始めて、悪かったと思ったのか 冗談をいったりして機嫌をとろうと必死になるので、このくらいから 私の怒り度も20%くらいに下がってくるのです。
その立場でしか分からない苦悩がきっとあるのでしょう。 壊れてしまう時、人に対する発言の内容もおかしくなるほどのプレッシャーの中に彼はいるのでしょう。 彼から皮肉を言われて、私もおかしくなってしまうように。
まだ、「悪かった。許してね」というような態度を示してくれることで、怒りを引きずらずにいられるのがよかったと思います。 そうやって、部下にも配慮がある上司なのは良かったと思います。
どんなに聖書を学んでも、とっさに起こることに 柔軟に対応できないときがあります。 反省しつつ、人に励まされ、御言葉に励まされ、解決を待つ間に心が癒される時、成長できたかな?と思えます。
嫌なことからは、学ぶことが多い。 その瞬間は落ち込むし、怒るし、考えをまとめるって頭がゴチャゴチャになってフラフラするし…大変だけど そんなことから気づかなかった事を知るのが多い。 人と触れ合って、共存して学びあって、人と関わることに 生きる意味があるのだなとしみじみ思う今日この頃。
完璧な人なんかいない。 だからみんな生きている~♪
忘れやすいです。
夕方六時はコパンとトゥトゥのディナータイム。
今夜のメニューは、ビーフ缶中心の味付けになっております。
二匹に餌をあげて、隣の部屋で作業をしてたら
コパンの妙な鳴き声が。
こっそり、覗いて見ると
トゥトゥがコパンの餌を美味しそうに食べていた。
私が「どうしてコパンの食べるの?」と話しかけると、トゥトゥは一目散に自分の餌場へ。
鳴いているだけで、トゥトゥに攻撃しないコパンに 私は「はてな?」マーク。
逆パターンもあるので、この子達のやってることの意味を理解できたらなって思います。
せっかく作った餌を二匹とも食べないときがあります。
私が片付けようとすると、二匹とも「やめて~」と言っているみたいに 追いかけてきて私の足に両前足を乗せて来るのです。 でも餌の皿を置くと、一目散に遠くに逃げて行く。
ちょっとイライラした私、
「一体全体、どういうことなんですか~?!」
二匹に向かって、金八先生見たいに言ってみる。
当然、二匹とも キョトンとした顔で私を見る。
そんな時、いつも「イエス様ならどうしただろう」と考える。
弟子達といた嵐の船の上の時の様に 落ち着いて動じずに、
餌の皿をゆっくり置いて、ソファーに寝転んで二匹が食べるのを天のお父様に任せるのだろう。
金八先生になった私に、「信仰がたりないのです」と言ったかもしれない。
そういえば、土曜日に二匹を連れて散歩に行った時
帰りの車でトゥトゥが助手席の窓から飛び降り、車中につないだリードに引っ張られて首をつった状態になった。
運転していた私は、驚いて車を止めて非常点滅灯をつけたが からまるコパンのリードとシートベルトをどうしていいか分からずに、手が震えた。
車外ではトゥトゥが首をつったまま、「クーン」と小さく鳴いている。
「何が『クーン』じゃ!」とか、心で思いながら必死で救出作戦を展開した。
その後、無事トゥトゥを保護。
汚い水溜りにも落ちて、散々な目にあったトゥトゥ (ハゲも3つあるし)なのですが
無事だったので、とても嬉しくて 抱きしめました。
親心が芽生えたのか、「ごめんね」と謝っている私。
神様に感謝したのでした。
イエス様だったらこの時、どうしたでしょう。
どんな状況でも焦らずに、車のシートを倒してトゥトゥが静かになるのを待つ…か、もしくは
放蕩息子をむかえる主人のように 無事だったトゥトゥをアパートに帰って盛大にもてなしたかもしれません。
(前者は冗談です)
聖書に触れるようになってから、特に
誰が生んだか分からないようなトゥトゥの事も、子供のように愛おしく思います。
どんな生命も愛らしい個性を持って生まれてきて、愛されるためだけに存在しているんだなと不器用なトゥトゥを見ると感じます。
人は愛すると幸せになるので、動物や植物は 人に無償の愛を与えてくれる神様からのプレゼントなのだと思います。
生まれてきてくれて、私達に飼われてくれて 本当に感謝しています。
いつも笑顔でいれるのは、理解ある旦那様と この二匹のおかげです。
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他に好きなものは音楽とヨーロッパと洋服。
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